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手描き「略図」を「知図」にする

近世の道を重ねて見える「逗子」

昨日、手描きした「略図」に、江戸時代からあった道を重ねてみる。と言っても、赤のペンで昔の道を塗るだけのこと。すると……すべての道が田越川の河口に集まっていることが見える!

旧・田越橋の辺りの田越川河口は船着場で、海路で運ばれてきた魚の水揚げ場だった。そこにすべての道は向かっていたのである。

大漁というお触れが各集落にまわると、この道を通って周辺集落の村人たちが集まってきていたと浅香先生は論文に書いていたが、そのことを裏づけるような道の成り立ちではないか。「ずし」とは魚を求めて人々が集まる場所としての「交差点=辻子」だった。

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江戸時代「逗子」と呼ばれた集落は、現在の逗子駅前付近。逗子市役所や亀岡八幡、銀座商店街など今でも中心となる辺りだ。田越川河口からわずかに離れたこの辺りが「逗子」と呼ばれたのはどうしてなのか。

おそらく、ここに市場、茶店、旅籠などができ、周辺集落の人たちだけでなく、江戸へ魚を運ぶなりわいをしている人、船で伊豆から魚を運んできた人が、休憩したり、商いしたり、飲み食いしたり、または遊んだりしたのではないか。人々と物資と商売が集結した「交差点=辻子」だったからかもしれない。

「ずし」は間違いなく「交差点」としての「辻子(ずし)」としての機能を果たしている。ならば「辻子」のままでよいのになぜ「逗子」になったか。


それは……「豆」州と呼ばれた「伊豆」からの海の「道」という意味で、「豆」と「道」を意味する「しんにょう」を組み合わせた字である「逗」を「ず」と読ませて「逗子」としたからではないか。「伊豆」の人たちや物資が集まる「交差点=辻子」が「逗子」。今でいうなら「ロゴ」みたいなものではないか。

こうして「略図」に「昔の道」を描くことで、これまで誰も唱えていない新たな説に気づいた。

「略図」を「近世からある道」だけクローズアップして眺めなおすだけで、知恵の生まれる「知図」になる。「知図」の第一形態「地図」をつくる面白さはこういうことだとおわかりいただけただろう。

「逗子」の名前の起源についての新説に気づいた!という「妄想」に浸る東京からの帰り道。夕方の逗子駅前交差点を渡る。

そこには、逗子駅を訪れた人がまず目にする、活気のある、大きな魚屋「魚佐次」がある。もう店じまいの時間で、魚はすべて片づけられていた。

 

こんなところにも「辻子」の歴史が、知らず知らず積み重なっているように感じた。

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