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永井龍男 半日ある記

短編の名手が書いたエセーを追体験しよう

永井龍男は最後の鎌倉文士と呼ばれ、1990年の秋にこの世を去った。短編の名手であり、『黒い御飯』や『胡桃割り』のような、家族の葛藤と悲哀を静かに描いた小説や、日常の何気ないことを淡々と描きながら、私たちの心を揺さぶらずにはいられないエセーを残した。巧みな文章スケッチと抑制されたシンプルな文体は、文章表現を磨く上で、貴重なお手本だ。

永井龍男も散歩好き。散歩にまつわるエセーをいくつも残している。その中に寺田寅彦の「半日ある記」のような文章スケッチを見つけた。鎌倉に行く用事のついでに、帰り道はわざと遠回りして永井龍男の散歩を追体験することにしよう。

まずは、永井龍男の原文をお読みいただきたい。

石蕗(つわぶき)の花 永井龍男

十一月に入って、快晴の日が続く。昼過ぎ、かかりつけの医者へ行く。十二指腸潰瘍以来、月に二度ほど診察をうける習慣がついた。待合室には、もう先着の患者が四五人いた。長椅子にかける私に、寄ってくる人がある。ここで顔馴染になった、私と同年輩の老人である。

「いい天気だから、歩いてきた。歩く気になれば歩ける」と、私の隣席を占めた。

「あなたの家は?」

「笹目の、ちょっと奥だ」

「それは、大したもんだ」そう、私は相槌を打った。

「おれの発見した、歩き方の秘伝を教えようか」と、少し膝をのり出して、彼は私の顔をのぞき込む。

「歩くというのは、早く云うと、右足と左足を交互に、前へ前へと運ぶことだ、交互にね。そうだろう」

「なるほどね」

「そうしている限り、体は否応なく前進する。そこで忘れてならないのは、決して急いではならぬということだ。どこかのおばさんや婆さんが、君を追抜いても、我かんせず、おのれの歩幅をまもって歩く。そうしていると、いつか君は、君の目的地点へ必ず到着する。到着したら、そこで君は、不思議だなあ、ここまで来られたと、自分をほめなければいけない。うん、秘伝とは、いつもそんなに簡単なものだ」物腰や口調が、教壇馴れしている。

順番がきて私の名が呼ばれ、診断をすませ薬をもらって外に出る。自動扉というものは、まことに空虚だ。なんとなく老人を振返らせる。

翌日の昼、食後の薬を服みながら、「秘伝」を思い出して、笑いをもらした。

散歩に行くことにした。バス通りを古風な赤いポストについて曲り、大御堂橋という小橋を渡ると、滑川沿いの裏道が、竹の寺の下まで続く。九月の末に、昨日の医院から一山トンネル越えして、この道を家まで帰ってきたことがある。釈迦堂口と呼んで、短いけれども老人にはなかなかの難所だ。「釈迦堂口トンネルは落石の危険あり、通行禁止。鎌倉警察署」の立札が立ってから、十年になるだろう。それでも人間は通抜ける。

その釈迦堂口に通じる山路の曲り角に、製材所のトタン屋根が見え、電気ノコギリが時々鳴る。ヘルメット帽をかむった人物が、ぽつんと一人立っていた。一見交通巡査風だが、制服がどこか異う。当方も脚を休めて、すれ違いざま一呼吸した。

ヘルメット帽がマイクを口に当てた。

「モシモシ、二号から三号へ」

「ハイ、コチラ三号」三号は、川を渡った辺りに立番しているのか。

無電のマイクを玄人風に使い、ついでに私を一瞥する。

釈迦堂口方面から、トラックが重い物を積んで、細い道幅一杯に徐行してくる。運転手が片手を上げて制服に会釈すると、制服は赤い棒を振り、私に道ばたに寄れと合図してから、「モシモシ、二号から三号へ」と、再度マイク。「ハイ、コチラ三号」「第八号車、タダイマ通過。相当重いぞ。そのあと、老人一名通過」

洋風の鉄柵前まで私は身を避ける。この辺は川沿いの住宅地だ。足もとに石蕗(つわぶき)の花がまっ黄色に、四五本咲いている。トラックは押出されるように、竹の寺行きの方向へ曲り、速力を早めて去る。車上は土砂の山だった。「土木会社の係員だ」とすぐリョウカイした。釈迦堂口をこちら側から越すまでにはかなり広い雑木林を通る。すぐ思いは走った。更地にするのは、しごく簡単であろう。

「右足と左足を交互に進めていれば、目的地に到着する」と、昨日の老人は云ったが、われわれがトボトボ歩いている間に、目的地の方が一つ一つ消されて行くとは、彼も私も気づいていなかった。

好い天気だからこそ、散歩に出たのだ、石蕗の花をしっかり見届けよ、十一月の黄色だぞと自らをいましめた。(朝日新聞夕刊・1987年12月25日)

早速、永井龍男の文章に従って散歩を始めよう。

まずは「バス通りを古風な赤いポストについて曲り、大御堂橋」へ向かう。

しかし、大御堂橋の入口となるバス通りには「古風な赤いポスト」はなかった。

横断歩道を渡り、大御堂橋方面に曲るとすぐ橋が見える。

あれ?橋の向こうに昔ながらの赤いポストがあるぞ。

大御堂橋を渡りきった先にポストがあった。もしかしてこのポストのことか……

永井龍男のエセーが書かれてから30年の月日が過ぎている。その間にバス通り沿いからここへ移動されたのか。集配時刻が記されており、いまだにこのポストは現役だ。

続いて、竹の寺と呼ばれる報国寺の下まで続く滑川沿いの裏道を進む。

あっという間に緑が生い茂り、川面が見えない。しばらく進んでようやく川が見えるところに来ると、野生の鯉が三匹、悠然と泳いでいた。

そこから数分ほどで釈迦堂口からの路とぶつかる曲がり角にさしかかった。

相変わらず、釈迦堂切通しは通行止になっている。

曲がり角に製材所はない。警備の人も立っていない。土砂を運ぶトラックの出入りはなく、たまに住民と思われる自家用車か、配送の車が通るだけだ。

切り通しに向かっての道の両脇には家々が立ち並ぶ。雑木林は更地になり住宅になったということか。

切通しの入口まで行ってみると、見事にバリケードがなされている。人も車も通過できない。おかげで雑木林の一部は破壊されず残されたかもしれない。

ただ、その際まで、住宅地は迫ってきていた。

ヘルメットをかぶったガードマンには会えなかったが、休日明けの真昼間にハイキングを楽しむ人たちと何組か出くわした。

わざわざ平日に歩きに来られるのだから、さぞや余裕があろうとは思うのだが、一人は、イヤフォンをつけて歩き、スマホで地図を確認することに夢中になって、釈迦堂切通しの入口をパッと見て、そそくさと歩いて行った。

次に出会ったトレイルランナーと思われる人は、脇目もふらず早足で山路へと消えて行った。

山から下りてきた夫婦と思われる男女二人組は、夫の方が、仕事の件でかかってきたと思われる電話に対応し、声を張り上げていた。

「うん、それね、もともとフィックスしてたはずだけどね。うん、だからね。また改めて考え直さないといけないところもあるかも知れないからね……」

せっかくの休みでも、見えない網にからめとられ、流れに任せて自由にのびのびとはいかないようだ。

「右足と左足を交互に進めていれば、目的地に到着すると、昨日の老人は云ったが、われわれがトボトボ歩いている間に、目的地の方が一つ一つ消されて行くとは、彼も私も気づいていなかった」

永井龍男は、自然破壊によって本来の風景が満ちている場所や風物が破壊され、消えてゆくことを憂いた。それから30年。「目的地」は、スマホに明示され、そこをただ訪れて確認するだけのものとなった。また歩くこと自体を「目的化」し、カロリー消費や健康づくり、スポーツとしてとらえるようになった。しかし、本来、散歩の「目的」とは、あらかじめ明確に決めている何かではなく、歩く道行きの中でたまたま出会う風景や花・草・木・鳥・風などではなかったろうか。

「好い天気だからこそ、散歩に出たのだ、石蕗の花をしっかり見届けよ、十一月の黄色だぞと自らをいましめた」

 

梅雨入り前の季節。秋に咲く石蕗(つわぶき)はない。代わりに紫陽花が色づき始め、地べたにはドクダミの群れの白が美しい。

空を見上げれば、墨流しのグラデーションが広がる空に気高く孤高なトビがいる。

足元に目を凝らせば、葉っぱの上に静かに虫が休んでいる。

周りを見渡せば薄曇りの空が緑の葉っぱの間に光の葉っぱをつくりだす。

巡礼道の脇の無縁塔を守るかのように静かに猫がたたずんでいる。

「鳥、虫、けもの、花、草、木」

 

映画「かぐや姫の物語」の童歌の世界そのまま。平成の巡礼道を通って衣張山へ向かう。

衣張山の頂からの鎌倉の街の眺望。いくつもの深い谷戸に家々がモザイク模様のように埋め尽くしている。ここから切り立った尾根伝いに進めば逗子だ。

ハイランド住宅地の脇をすり抜け、大切岸にたどりつけば、見慣れた逗子の街並みが見える。もうわが家に着いたも同然だ。

名越の切通しを抜ければ到着……

すると反対側から、旗を掲げたツアーコンダクターとともに中高年の集団が登ってきた。

「なんか人の頭ばっかり見てる感じだなあ」

「こっちの人にもちゃんと気を配ってほしいよね」

「まだ、先、長く歩くの?」

 

ここを「目的地」として連れてこられた人たちだ。

「目的」とはなんだろう。どこを向かって歩いてゆくのだろう。

 

私は、ただ永井龍男のように、好い天気の日には、外を歩き、目の前の小さな美しさに満ちた自然を愛で、目に焼きつけておこう。そして、目の前にあるものだけでなく、失われたものを想像し、時空を超えて取り戻す眼を持とう。

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