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寺田寅彦 半日ある記

寅彦流文章スケッチを追体験しよう

寺田寅彦が東大に入学し、物理学を学び始めた年に書かれたエッセー。その名も「半日ある記」。そのままテレビ番組のタイトルになりそうだ。 お彼岸の日に当時下宿していた谷中から上野・浅草を通り、向島の百花園を目指す Feel°C Walk の記録だ。

見たことをそのまま時系列に描写し続けていくエッセー。こうした文章を書くことを日々積み重ねて観察し、描写する力を高めて行ったのだろう。後年の手練れた名文とは異なる、初々しさ、元気さに溢れる勢いのある文章だ。

まずはご一読を

九月二十四日、日曜日、空よく晴れて暑からず寒からず。数学の宿題も午前の中に片付けたれば午後半日は思うまま遊ぶべしと定まれば昼飯待遠し。

今日は彼岸にや本堂に人数多(あまた)集りて和尚の称名の声いつもよりは高らかなるなど寺の内も今日は何となく賑やかなり。線香と花估(う)るゝ事しきりに小僧幾度か箒(ほうき)引きずって墓場を出つ入りつ。木魚の音のポン/\たるを後に聞き朴歯(ほおば)の木履(ぽくり)カラつかせて出で立つ。

近辺の寺々いずこも参詣人多く花屋の店頭黄なる赤き菊蝦夷菊堆(うずたか)し。とある杉垣の内を覗けば立ち並ぶ墓碑苔黒き中にまだ生々しき土饅頭一つ、その前にぬかずきて合掌せるは二十前後の女三人と稚(おさな)き女の子一人、いずれも身なり賤しからぬに白粉気なき耳の根色白し。墓前花堆うして香煙空しく迷う塔婆の影、木の間もる日光をあびて骨あらわなる白張燈籠目に立つなどさま/″\哀れなりける。

上野へ入れば往来の人ようやくしげく、ステッキ引きずる書生の群あれば盛装せる御嬢様坊ちゃん方をはじめ、自転車はしらして得意気なる人、動物園の前に大口あいて立つ田舎漢(いなかもの)、乗車をすゝむる人力、イラッシャイを叫ぶ茶店の女など並ぶるは管(くだ)なり。パノラマ館には例によって人を呼ぶ楽隊の音面白そうなれば吾もまた例によって足を其方(そちら)へ運ぶ。

また右手の小高き岡に上って見下ろせば木の間につゞく車馬老若の絡繹(らくえき)たる、秋なれども人の顔の淋しそうなるはなし。杉の大木の下に床几を積み上げたるに落葉やゝ積りて鳥の糞の白き下には小笹生い茂りて土すべりがちなるなど雑鬧(ざっとう)の中に幽趣なるはこの公園の特徴なるべし。 西郷像の方へ行きたれども書生の群多くてうるさければ引きかえしパノラマ館裏手の坂を下る。こゝは稍(やや)静かなれど紅塵ようやく深く鉄道構内の煤煙風に迷うもうるさし。

踏切を越えて通りかゝりし鉄道馬車にのる。乗客多くて坐る余地もなければ入口に凭(もた)れて倒れんとする事幾度。 公園裏にて下り小路を入れば人の往来織るがごとく、壮士芝居あれば娘手踊あり、軽業カッポレ浪花踊、評判の江川の玉乗りにタッタ三銭を惜しみたまわぬ方々に満たされて囃子の音ただやかまし。猿に餌をやるどれほど面白きか知らず。魚釣幾度か釣り損ねてようやく得たる一尾に笑靨(えくぼ)傾くる少年帰ってオッカサンに何をはなすか。写真店の看板を見る兵隊さん。鯉に麩(ふ)を投ぐる娘の子。凌雲閣(りょううんかく)上人豆のごとしと思う我を上より見下ろして蛆(うじ)のごとしと嘲りし者ありしや否や。

右へ廻れば藤棚の下に「御子供衆への御土産一銭から御座ります」と声々に叫ぶ玩具売りの女の子。牡丹燈籠とかの活人形はその脇にあり。酒中花欠皿に開いて赤けれども買う人もなくて爺が煙管しきりに煙を吐く。蓄音機今音羽屋の弁天小僧にして向いの壮士腕をまくって耶蘇教を攻撃するあり。曲書きのおじさん大黒天の耳を書く所。砂書きの御婆さん「ヘー有難う、もうソチラの方は御済になりましたかなー、もうありませんかなー。」ヘー有難うこれから当世白狐伝を御覧に入れる所なり。魔除鼠除けの呪文、さては唐竹割の術より小よりで箸を切る伝まで十銭のところ三銭までに勉強して教える男の武者修行めきたるなど。ちと人が悪いようなれども一切只にて拝見したる報いは覿面(てきめん)、腹にわかに痛み出して一歩もあゆみ難くなれり。

近きベンチへ腰をかけて観音様を祈り奉る俄信心を起すも霊験のある筈なしと顔をしかめながら雷門を出づれば仁王の顔いつもよりは苦し。仲見世の雑鬧(ざっとう)は云わずもあるべし。東橋に出づ。腹痛やゝ治まる。向うへ越して交番に百花園への道を尋ね、向島堤上の砂利を蹴って行く。空いつの間にか曇りてポツリ/\顔におつれどさしたる事もなければ行手を急いで上へ/\と行く。

道右へ廻りて両側に料理屋茶店など立ち並ぶ間を行く。右手に萩の園と掛札ある家を、これが百花園かと門内を覗くに、どうやら変なれば、客待ちの車夫に問うに、百花園はまだずっと先なり。大倉の別荘の石垣に、白赤の萩溢るゝがごときに、二輌の馬車門を出でて南へ馳せ去りたる、あれは喜八郎の一家か、車上の男女いたく澄まし顔なるが先ず癪に触りける。

三囲の稲荷堤上より拝し、腹まだ治まらねば団子かじる気もなく、ようやく百花園への道札見付けて堤を右へ下り、小溝に沿うてまがりくねりの道を行く半町ばかり。道傍、溝の畔(ほとり)に萩みだれ、小さき社の垣根に鶏頭赤きなど、早くも園に入りたる心地す。
 

この辺紺屋多し。園に達すれば門前に集う車数知れず。小門清楚、「春夏秋冬花不断」の掛額もさびたり。門を入れば萩先ず目に赤く、立て並べたる自転車おびたゞし。左脇の家に人数多集い、念仏の声洋々たるは何の弔いか。その隣に楽焼の都鳥など売る店あり。これに続く茶店二、三。前に夕顔棚ありて下に酒酌む自転車乗りの一隊、見るから殺風景なり。

その前は一面の秋草原。芒の蓬々たるあれば萩の道に溢れんとする、さては芙蓉の白き紅なる、紫苑、女郎花(おみなえし)、藤袴、釣鐘花、虎の尾、鶏頭、鳳仙花、水引の花さま/″\に咲き乱れて、径その間に通じ、道傍に何々塚の立つなどあり。中に細長き池あり。荷葉半ば枯れなんとして見る影もなきが一入(ひとしお)秋草の色に映りて面白し。春夏の花木もあれども目に入らず。

しのぶ塚と云うを見ているうち我を呼びかける者あり。ふりかえれば森田の母子と田中君なり。連れ立って更に園をめぐる。草花に処々(ところどころ)釣り下げたる短冊既に面白からぬにその裏を見れば鬼ころしの広告ずり嘔吐を催すばかりなり。秋草には束髪の美人を聯想すなど考えながらこゝを出でたり。

腹痛ようやく止む。鐘が淵紡績の煙突草後に聳(そび)え、右に白きは大学のボートハウスなるべし、端艇(ボート)を乗り出す者二、三。前は桜樹の隧道(ずいどう)、花時思いやらる。八重桜多き由なれど花なければ吾には見分け難し。植半の屋根に止れる鳶二羽相対してさながら瓦にて造れるようなるを瓦じゃ鳥じゃと云ううち左なる一羽嘲るがごとく此方(こっち)を向きたるに皆々どっと笑う。

道傍に並ぶ柱燈人造麝香(じゃこう)の広告なりと聞きてはますます嬉しからず。渡頭(わたしば)に下り立ちて船に上る。千住よりの小蒸気けたゝましき笛ならして過ぐれば余波舷(ふなばた)をあおる事少時。乗客間もなく満ちて船は中流に出でたり。雨催(あまもよい)の空濁江に映りて、堤下の杭に漣(れんい)寄するも、蘆荻(ろてき)の声静かなりし昔の様尋ぬるに由なく、渡番小屋にペンキ塗の広告看板かゝりては簑打ち払う風流も似合うべくもあらず。今戸の渡と云う名ばかりは流石に床し。

山谷堀に上がれば雨はら/\と降り来るも場所柄なれば面白き心地もせらる。さりとて傘持たぬ一同、たとえ張子ならずとも風邪など引いては面白からねば大急ぎにて雷門前まで駈け付く。先を争いて馬車に乗らんとあせる人狂気のごとく、見る間に満員となりて馳せ出せば友にはぐれて取り残さるゝ人も多し。来る馬車も/\皆満員となりて乗る折もなし。婦人連れの事なれば奮発してようよう上等に乗ればこれもやはりギシつみにて呼吸も出来ざるをようようにして上野へ着けば雨も小止みとなりける。こゝに一行と別れて山内に入る。
  

人ようよう散じて後れ帰るもの疎(まばら)なり。向うより勢いよく馳せ来る馬車の上に端坐せるは瀟洒たる白面の貴公子。たしか『太陽』の口絵にて見たるようなりと考うれば、さなり三条君美(きみとみ)の君よと振返れば早や見えざりける。また降り出さぬ間と急いで谷中へ帰れば木魚の音またポン/\/\。(明治三十二年九月)

この時代のうまい物書きはみな、文語の五七のリズムが身についている。寅彦先生の親しんできた文章の影響をしっかり受けているということだろう。

さて、ではこの寅彦先生の Feel°C Walk での描写力を真似ぶために、こんなレッスンをしてみよう。

文語体のこのエッセイを口語体に翻訳せよ。ただしなるべくテンポのよい文体になるように心がけよ。

では、早速、言い出しっぺの私めからいざ挑戦いたしまする。

九月二十四日、日曜日、空はよく晴れて暑くもなく寒くもない。数学の宿題も午前中に片付けたので午後半日は思うまま遊んでやろうと心を決めると昼飯が待遠しくなった。

今日はお彼岸。わが下宿先の寺の本堂には多くの人が集まり、和尚の称名の声はいつもより心なしか高らかに聞こえ、寺の中が何となく賑やかに感じる。お線香と供花を売らねばならず、小僧は箒(ほうき)を引きずって何度も墓場を出たり入ったりしている。木魚がポンポンとなる音に、朴歯(ほおば)のぽっくり下駄をカラコロなる音が混じり合う。

近辺の寺々は、どこも参詣人が多く、花屋の店頭には赤や黄色の菊や蝦夷菊がうずたかく積まれている。とある杉垣の内を覗くと、立ち並ぶ墓碑はみな黒々と苔むしているところに、まだ生々しさの残る土の山が目に入った。その前で二十歳前後の女三人と幼い女の子が一人、手を合わせ拝んでいた。みなよい身なりをしていて、世間ずれしていない育ちの良さを醸し出している。墓前には花が積まれ、卒塔婆の影に線香の煙が空しく立ちのぼる。木の間からもれる日光をあびて白張提灯の骨が妙に目立つ。そんないろいろが一層哀れさを感じさせた。

上野へ入ると往来の人通りがはげしくなる。ステッキを引きずる書生の群。おしゃれに着飾る若い男女。自転車を飛ばして得意気な人もいる。動物園の前には田舎者が大口を開いてぼーっと突っ立っていた。人力車の車夫たちは、乗らないかと客を誘い、茶店の女たちは「いらっしゃいませ」と声を上げ、なんとか店に連れ込もうとするのがうっとうしい。パノラマ館に近づくと、いつものように人を呼ぶ楽隊の音が聞こえ、面白そうなので、私もついついそちらに足を運んでしまう。

右手の小高い丘に上って見下ろせば、木の間からひっきりなしに行き来する車、馬、老若男女の人々が見えるが、秋のさびしさを顔に表す人は誰もいない。杉の大木の下には、腰掛けが積み上げてあり、そこに落葉が積もり、白い鳥の糞が点々としている。小笹が生い茂っているすべりがちな土の道は、周囲の雑踏から隔絶され、幽趣すら感じる。それがこの公園の特徴であろう。

西郷さんの銅像の方へ行きたいとは思ったが、大学生たちが多く、うるさいので引きかえし、パノラマ館裏手の坂を下った。ここはちょっと静かだが、ほこりっぽいうえに、蒸気機関車の煤煙まで混ざるので、あまりいいところではない。踏切を越えて、通りかかった鉄道馬車に乗ると、満員の乗客で座る余地はない。入口にもたれていたものの何度も倒れそうになった。

浅草の公園裏で鉄道馬車を下り、小路に入ると、多くの人たちでごったがえしていた。壮士芝居があるかと思うと娘の手踊り、軽業カッポレ、浪花踊り、評判の江川の玉乗りもあった。「タッタ三銭!」の呼び声とお囃子の音がただただやかましい。猿に餌をやるなんてどこが面白いのだろう。魚釣りでは、男の子が、なんども釣り損ねてようやく一匹の魚を釣りあげ、満面の笑顔。とはいえ、家に帰っておっかさんにどんな話をするのだろう。写真店の看板を見る兵隊さん。鯉に麩(ふ)を投げる女の子。凌雲閣(りょううんかく)タワーを見上げると、展望台にいる人が豆のように見える。向こうの人から見れば、こっちの姿はウジ虫みたいと我らのことを嘲っているのかどうか。

右へ曲がると、藤棚の下で「子供たちへのお土産、一銭からございますよ」と叫ぶ玩具売りの女の子がいた。その脇には牡丹燈籠の人形があった。欠けた盃に赤い花を浮べて売っていたが、誰も買う人はなく、じいさんはしきりに煙管の煙を吐くだけだ。蓄音機からは音羽屋の弁天小僧のセリフが流れ、その向いに立つ政治活動家は腕をまくってキリスト教を攻撃する演説。曲書きのおじさんは大黒天の耳を書こうとしているし、砂書きのお婆さんは「ヘー有難う、もうソチラの方はお済みになりましたかなー、もうありませんかなー」と語っている。「ヘー有難う。これから当世白狐伝をご覧に入れる所なり」という声が聞こえてくるかと思えば、魔除け、鼠除けの呪文も聞こえてくる。紙のこよりで箸を切る唐竹割の術を見せる者やら、十銭のところを三銭まで勉強して男の武者修行を指南する者やら、有象無象の数々。ぶらぶら歩いて、一銭も払わずに冷やかしてまわったが、その報いはてきめん。急に腹痛におそわれて一歩も歩けなくなってしまった。

近くのベンチへ腰をかけて、観音様を祈り奉ったが、そんなにわか信心を起こしたところで霊験を得られるはずもない。顔をしかめながら雷門を出たが、仁王の顔がいつもよりも苦々しそうに見えた。仲見世の雑踏を通り抜けて吾妻橋にさしかかると、腹痛は少し治った。橋を渡った先にあった交番で向島百花園への行き方を尋ね、堤防の上の道を砂利を蹴りながら歩いた。空はいつのまにか曇り、雨粒がポツリポツリと顔に当たったが大したこともないので行手を急いだ。

道が右の方に曲がってゆくと両側に料理屋・茶店などが立ち並び始めた。右手に「萩の園」という札のかかった家があり、これを百花園かと思い門内をのぞくとどうも変だ。客を待つ車夫に問うと、百花園はまだずっと先だと言う。大倉財閥の別荘の石垣には、白と赤の萩があふれるごとく咲き誇っていた。すると二台の馬車が門から出できて南に向かって走り去っていった。喜八郎の一家だろうか。車上の男女がいかにも澄ました顔をしていたことがまず癪に触った。

三囲稲荷を堤防の上から眺め、腹の調子がまだ治まらないので言問の団子をかじる気にもならず、そのまま歩き続けると、ようやく百花園への道札を見つけた。堤を右へ下り、小さい溝に沿う曲がりくねった道を半町ばかり進む。道ばたや溝のほとりには萩の花が咲きみだれ、小さい社の垣根には鶏頭が赤々としている。早くも園に入ったような心地がした。
 

この辺りは染物屋が多い。ようやく百花園の門前に到着すると車がたくさん停まっている。門は小さく清楚で、「春夏秋冬花不断」と書かれた古さびた額が掛けられていた。門を入った途端に目を引くのは萩の花の赤。しかし、そのそばにおびただしい数の自転車が立ち並んでいた。左脇の家には、人がたくさん集り、高らかな念仏の声が聞こえてくる。弔いか何かであろうか。その隣には、楽焼の都鳥などを売る店があった。さらに茶店が二、三軒。目の前には夕顔の棚があってその下でサイクリングのグループが酒を酌み交わしていた。見るからに殺風景だ。

園内を巡れば一面、秋草の野原。ススキが生い茂り、萩の道にまで溢れている。白地に紅のにじむ芙蓉、紫苑、女郎花(おみなえし)、藤袴、釣鐘花、虎の尾、鶏頭、鳳仙花、水引の花、さまざまに咲き乱れる間を径は通り抜ける。道ばたには何々塚と書かれた石碑がいくつも立っていた。園の中程に細長い池があった。蓮の葉は半ば枯れて、見る影もないが、秋草の色との対比が面白い。春や夏の花木もあったがまったく目に入らなかった。

しのぶ塚という石碑を見ていると私を呼びとめる者がいた。ふりかえると森田の母子と田中君だった。連れ立ってさらに園をめぐる。草花に短冊がつり下げてあるだけで面白くないのに、裏には「鬼ころし」の広告が印刷されていてそのあざとさに吐き気がした。秋草を見ると髪を束ねた美人を連想するなと思いながら百花園を出た。

腹痛はようやく止んだ。鐘が淵紡績の煙突が、草原の後に聳(そび)え、右には白い建物が見えた。大学のボートハウスだろう。ボートを乗り出そうとする者が二、三人いた。ボートハウスの前は桜の樹のトンネル。花見時の美しさを思わず想像してしまう。八重桜が多いらしいが、花がないと私には見分けることは難しい。向島の温泉宿「植半」の屋根が見え、鳶が二羽相対して止まっていた。まるで瓦で造ったかのように見えるので、瓦かな鳥かななどと言っていると、左の一羽が我々を嘲るようにこっちを向いたのでみんなで大笑いした。

道端の電信柱の広告は「人造麝香(じゃこう)」だと聞いて面白くない気持ちになった。渡し場に下り立って船に乗ることにした。千住から下ってきた小さな蒸気船がけたたましく汽笛をならして通り過ぎたので、波が私たちの乗った船を大きく揺らした。それからすぐ、乗客もいっぱいになり船は出航した。雨模様の空がすみだの川面に映り、堤の下の杭にさざなみが寄せても、蘆と荻に覆われて静かだった昔の様子をうかがわせるものはない。渡し番の小屋にペンキ塗の広告看板がかかっているようでは、簑を打ち払う風流を思い起こすことなどできない。ただ今戸の渡という名だけがゆかしさを残すばかりである。

山谷堀に上がると、雨がはらはらと降ってきたものの、吉原もほど近く面白い心地もした。とはいえみな傘を持たず、張子の虎ではないにせよ、雨に濡れて風邪など引いては大変なので、大急ぎで雷門の前まで行った。先を争って馬車に乗ろうと狂ったようにあせる人ばかりで、見る間に満員となって走り出したので、仲間とはぐれて取り残される人も多くいた。来る馬車来る馬車すべて満員で乗車できない。我々は婦人を連れているので、奮発してなんとか上等に乗ったが、それでもやはりぎゅうぎゅう詰めで、呼吸もできないほど。なんとか上野にたどり着いた。その頃には雨も小止みとなり、ここで一行と別れて、私は再び上野の山の中へと入った。
 

昼間いた多くの人々はようやくいなくなり、帰る人もまばらだった。向うから勢いよく馬車が走って来たので、馬車の上に誰が乗っているのだろうと眺めると、垢抜けておしゃれな色白の貴公子が座っていた。たしか雑誌『太陽』の口絵で見た気がしたような……と思っていたら、急に記憶がよみがえり、三条君美(きみとみ)候だと気づき、すぐに振り返ってみたもののもう馬車は見えなかった。また雨が降り出さないうちに谷中へ急いで戻ると、相変わらず木魚がポンポンポンポン鳴る音が聞こえた。(明治三十二年九月)

こうして口語体に直して見るだけで、寅彦先生の観察力と描写の仕方を実感することができて面白かった。

さあ、次なる課題は、このエッセイで書かれた通りに谷中から上野・浅草・本所・向島を歩き、今の情景を寅彦流にエッセイしてみることだ。

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