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歩いて発見したことを「地図」にする

人類の生々しい歴史をあらわにする街「逗子」

この前の日曜日、普段、よく散策する範囲の略図を作った。

この地図の範囲を意識しながら、今週、新たに歩いたところを付け加えて、少しだけ「略図」が変化した。

この略図に今週、歩きながら気になったことを書き入れることにした。

「逗子」はいかにして「逗子」と呼ばれしや。

「人の作りし逗子」なれど「地球の動き見えし逗子」なるや。

ということをトピックとして考えてきたわけであるが、やはり、街を歩いていると、どうしても墓標・石仏・石碑が気になってしまう。

路傍のお地蔵さん。

庚申塔。

遊行の貧乏僧や賤しい民を供養する石塔。

承久の乱で後鳥羽上皇側につき、敗れた武将の遺児が処刑された跡。まさに夏草や兵どもが夢の跡のごとし。

庶民の病を治した旅の僧の墓は、死してなお霊験あらたかな場とされた。

逗子のゆかりのある文学者の石碑も気になる。

その周囲には、寺社がある。

歩いて出会ったモノや場を「略図」に書き込み、調べたことを書き足して、こんな「地図」ができた。

書いてみて気づいたこと。

逗子を歩くと、現代に至るまで「人類」がたどってきた生々しい歴史を実感するということ。逗子の民の特殊な歴史ではなく人類の業(カルマ)を感じるのだ。

貴き人から賤しき民まで、名の知れた人から名の知れぬ人まで、いろいろな人たちが流した血と涙の積み重ねを経て「今」があることを、隠さず、露わにしている街なのだ。海路での通行と陸路での通行が交わる「辻子」。二つの通路それぞれがメインルートからちょっとだけずれた裏筋だったことで、様々なドラマが生まれやすい土地だった。争いに敗れた権力者が逃げ込み、貴き人が隠される一方で、人々から忌避された病人や罪人も流れ込んだ。そんな吹きだまりには、彼らを救済したいという聖も現れただろうし、絶望したい状況でも前向きに生き続けた市井の人々もいただろう。小さいながらも多様な人々のるつぼとして歴史を積み重ね、思わぬ出会いが生まれ、日々、悲劇と喜劇が繰り返された。

歴史とは、時の為政者によって、美しく更新された無機質の記録である。背後にあった苦しみや矛盾は、きれいさっぱり消されている。しかし、本当の歴史は、血塗られた部分もあれば、苦しくも支え合い、他者のために尽くした人たちの汗の結晶という部分もある。

陰惨な歴史を背負わされたにもかかわらず、怨念に固まった町として硬直化し、澱んでいないのはなぜなのか。改めて逗子の開放感と歴史とのギャップについて考えさせられる。その鍵はやはり「定住民」気質ではなく「海民」気質で、出入り自由という町の成り立ちが大いに影響しているように思う。さらに、人類の抱える業への諦めと憐れみを持ちつつ、ニヒリズムに沈まず淡々と生きていくのが人生という思いが土地にしみ込んでいるからではないか。

一方で、過去の嫌なことをただ受け流すだけでもなんとか食べてゆける恵まれた街だから許されるマインドセットなのかもしれない。現状追認以上の何かを生まない街なのか、柳に風の強かさを持つ街なのか……

妄想は尽きない。

逗子の道を歩けば、時代のミルフィーユに織り込まれた先人の思いを、同じ時代を生きる人の思いのように重ね合わせて体感できるのだ。

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