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野生的・強制的思考の楽しみ

〜國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から学ぶ〜

 

 

パスカルはこう言った。

人間は部屋でじっとしていられない。だから熱中できる気晴らしを求める。熱中するためであれば苦しむことすら厭わない。いや、積極的に求めることすらある(p.49)

ラッセルはこう言った。

退屈とは事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものである(p.53)

ラッセル流に「退屈」をとらえれば、「退屈」の反対は「快楽」ではなく「興奮」になる。興奮して熱中できる「事件」がありさえすればそれでいい。誰かのスキャンダルだろうが、対岸の火事で興奮することで退屈をまぎらせたい。ただそれだけというのが一般の心理というわけだ。

そもそもどうしてこうもまあ「落ち着かない」「多動傾向」をヒトは持っているかというと、私たちの先祖は、遊動生活をしていたからだと考えられる。優れた探索能力を生かして、食物や居場所を発見するのが常だった。定住生活は、安定した生産と供給があって成り立つと考えると、遊動生活は不安定で、困難に見舞われて暮らしているように見える。しかし、実は遊動生活がもたらす「負荷」は、

人間のもつ潜在的能力にとって心地よいものであった(p.89)

と國分さんは考える。私もこの考えに同意である。追い込まれて、臨機応変に行動しないといけない状況は、ドキドキで不安だが、同時にワクワクで充実感をもたらす。

ところがいまやどっぷり定住生活に浸っている私たちが遊動生活の時に得ていた充実感を日々得ることはできない。

毎日、とりあえず食べられて、暖かい布団の中で眠れて、曲がりなりにも心を通じ合える家族や仲間がいる。それで十分ではないか……

しかし、私たちは満足できない。

なんとなく退屈だ

と感じてしまう。するとそこに「消費欲求」をくすぐって「退屈」を追い払いうという魔の手が忍び寄る。

「消費欲求」が何故に「魔の手」か。それは「物」ではなく「観念・記号」によって私たちに迫ってくるからだ。もし「現物」が手に入って満足できるならば、私たちは「1個」だけで済む。しかし「観念・記号」による消費は際限がない。

ある物は手にしても、ある観念=もっとかっこいいデザイン、機能、流行のような実体のないアイデアが私たちを襲う。

「ああ、あのスタイルの方がいい」

「あっちの方がもっと美味しいかも」

こうして限界なく、延々と消費は繰り返される。

消費社会では退屈と消費が相互依存している。終わらない消費は退屈を紛らすためのものだが、同時に退屈を作り出す。退屈は消費を促し、消費は退屈を生む(p.161)

これはこの本の根幹だ。つまり、「暇だから退屈する」というより、「退屈」につながる「暇」の有無に関係なく、人は「退屈」に追い込まれる。逆に言えば、「暇」があってもその「暇」を前向きに生かすことなくただ「退屈」としか思わない。

ハンナ・アーレントは、「労働」は、人に奴隷的な働き方を強いるものであり、世界に存在し続ける価値のあるものを創造するアートのような「仕事」こそ人が本来すべきことだと主張した。しかし、私たちは「仕事」に取り組める余裕を与えられたとしても、パチンコにいそしむだけという「消費的」な気晴らしにはまるだけかもしれない。

これに対してマルクスの想定した「共産主義社会」は、

私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである

というように、暇が生まれた時、どう過ごすかということをしっかり考えようね!ということを想定している。

やるべき仕事がない時、退屈が引き起こす不安と不快を、自らやるべきことを考えてそれに没頭することに使おうとするか、それとも消費的に退屈をやり過ごそうとするか。もし消費的に退屈をやり過ごそうとしたら、先にも述べたように、暇なく退屈を排除する流れに載せられ、いつまでたっても退屈が消えず、満足できない無間地獄に落ちる。

私たちにせっかく残されている遊動時代の探索能力。これを國分さんは「動物的」と言い、レヴィ=ストロースや川喜田先生や中沢新一さんは「野生」と呼ぶ。

「退屈」は、「野生」の探索能力がむくむくと湧いてきているにも関わらず、動かず、定住を強いられている状態への反発と考えられる。そのエネルギーが創造へのエネルギーとなり、文明や芸術を進歩させてきた。

とはいえ、「野生」のもたらす「退屈」を消すために即座に行動を起こせばよいということではない。むしろ「退屈」を引き起こす「暇」な状況にどっぷり浸ることが重要だ。

「余計なこと考えずに決めてしまいなさい」

もっともらしく、思いやりのあるように響くこのセリフで、あちこちフラフラする余裕を奪う。

「進路は早く決めて、準備を周到にしなさい。資格をとった方がいいんじゃない」

と決断を迫る圧力をかけられる。こうして暇に浸ることは許されず、

日常生活には物や人とのふとした交流が存在する。もちろんそうしたことが必ずあるとは言えない。ところが決断を目指す者は、そうした機会が実際に目の前にあるというのに、故意に交流の機会を絶つ。(p.297)

ということになってしまう。こんなことで、どうして自分の心の奥底からの声に耳を傾けることなどできようか。

確かに「退屈」と向き合って心の声に耳を傾けるのは面倒だ。多くの人々は、なるべくだったらいろいろ考えずに過ごしたいと思っている。予定調和、習慣で済ませられる世界が楽でいい。なんでもかんでも考えて生きなければならないなら、日常生活がスムーズにいかないだろう。

一方で、習慣にして済ませたいという私たちの傾向に満足できないという衝動を抱えて生きざるを得ない。なんとも矛盾した存在なのだ。

だったらどうする?

退屈を楽しむっきゃない!

ということだ。動物的、野生の思考に身を委ね、好奇心ベースに生きるのだ。バートランド・ラッセルは、それこそ教育の役目だと述べている。

教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた。(p.343-344)

そう。考えることを面倒だと思い、習慣化し、ステレオタイプで判断しようとする私たちの傾向にあえて逆らう。なんでも楽しむ。面白がることを学ばなければならないのである。

さらにラッセルは言う。

幸福の秘訣は、こういうことだ。あなたの興味をできる限り幅広くせよ。そして、あなたの興味をひく人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。(p.58)

私たちの野生の思考を解き放ち、なんでも楽しもうとする能力を身につけることで私たちは幸福に生きてゆける。

では具体的にどんな訓練をするか。最後にドゥルーズのやり方を示しておこう。彼は映画や絵画が大好きで、毎週のように美術館・映画館に通いつめた。どうしてそんな努力を続けられるのかたずねられたドゥルーズはこう答えた。

「私は待ち構えるのだ」

彼は「思考は強制されるものだ」と述べた。それは、思考も楽しみも「待ち構えて受け取る」ことだととらえていたからだ。楽しむ気持ちを持つから考えることは苦痛にならず、常にあれこれ考えようとするスイッチがONになる。

まさに動物が野生の能力を発揮して獲物を狙うように待ち構え、強制的に考えざるを得ない状況に身を置き、向こうから飛び込んでくるものをとにかく捕まえにいく。

世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、<動物になること>を待ち構えることができるようになる。(p.354)

AI時代は「暇」と「退屈」について「消費型」ではない対処が求められる時代と言える。AI時代の「福音」の一つは間違いなく「暇」をゲットできるということだ。アーレントの言う「労働」はAIがするのだから、自分なりの価値基準で「仕事」を為すことができる時代だ。

動いて、考えて、自分なりに理解する方法を各自が見つけてゆく。与えられた情報の奴隷にならず、自ら考えて理解する。そのスピードもやり方も違っていい。そんな「暇」が私たちに与えられ、許される時代と言えるではないか。

自分にとって分かるということがどういうことなのか分かることなくして、本当の理解は得られないとスピノザは言う。一生かけて、自分にとって分かるとは何かを追い求められる「暇」の与えられる時代。「退屈」に身を委ねて、なんでもやってみて、試して見て、楽しめる時代の到来を喜ぼうではないか。