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地図がつないだ子規と寅彦

子規の『墨汁一滴』を読み始めてすぐ、こんな文章に出くわした。

「この頃根岸倶楽部より出版せられたる根岸の地図は大槻博士(注:大槻文彦。著名な国語学者で、日本で初めての近代的国語辞典『言海』の編纂者)の製作に係り、地理の細精に考証の確実なるのみならずわれら根岸人に取りてはいと面白く趣ある者なり。我らの住みたる処は今鶯横町といへど昔は狸横町といへりとぞ」(正岡子規『墨汁一滴』明治三十四年一月十八日)

根岸倶楽部という出版社の名前がいい。子規は、自分の住む根岸界隈の精細な地図ができたことを知って早速手に入れたのだろう(弟子の誰かが持ってきたのかもしれない……)。

大槻先生は、江戸時代の根岸、琳派の酒井抱一が住んでいた頃の根岸を懐かしんだ文章を地図に添えている。

「田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一が句に「山茶花や根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ(注:手紙(書状)を運ぶために入れる箱)」また一種の風趣ならずや、さるに今は名物なりし山茶花かん竹の生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石煉瓦の垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られ古(いにし)への奥州路の地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされくいなの声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり」

今、子規庵を訪れるには、「鶯谷」という地名とは全く似つかわしくない猥雑な雰囲気にあふれた場所を通らなければならない。周囲はラブホに囲まれていて、とてもここに前田家のお屋敷があったとは信じられない。唯一、子規の時代から変わらないのは、曲がりくねった路地の姿だけだ。

とはいえ、大槻先生の文章を読めば、既に明治の半ば過ぎに、かつての情緒が失われたことがわかる。

子規が「地図好き」であったことは、子規庵に彼が愛蔵した「一束の地図」が残されていることからも明らかだ。日本の官製地図の他に松山から上京する際に家にあった書籍から引きちぎられた世界地図も五枚含まれていると言う。その中で特に目を引くのは、子規自らが彩色した故郷『松山』の二十万分の一の地図だ。

根岸の地図のみならず、故郷の地図を折々見ては夢想・空想し、脳内イメージを「写生」し続けていた。本来、漫歩好きでありながら、病床で動けなくなりつつあった子規にとって「地図」を眺めての「空想散歩」をどんなにか楽しい慰めだったことだろう。

そんな子規の「地図」を「記念品」として大事にとっていた人物がいる。寺田寅彦である。

なんでこのことを知ったか。根岸の地図を書いた「大槻先生」とは誰か知るために「大槻」「根岸」「子規」とキーワードを入れてググったところ、「寺田寅彦 子規直筆の根岸地図」という項目が出てきて、子規の地図をモチーフにした寅彦先生のエッセーを見つけてしまったのだ。

漱石先生を介して二人が知り合いであったことは知っていたが、子規先生と寅彦先生が「地図」によってつながってしまうとは思ってもみなかった。

寅彦の手にした地図は、子規庵から画家の中村不折の家への行き方を書いた子規直筆の案内図。で子規の愛用する原稿用紙(注:紙質は唐紙。罫線は朱色。二十四字×十八行)に書かれたものだった。

「紙の左上から右辺の中ほどまで二条の並行曲線が引いてあるのが上野の麓を通る鉄道線路を示している。その線路の右端の下方、すなわち紙の右下隅に鶯横町の彎曲した道があって、その片側にいびつな長方形のかいてあるのがすなわち子規庵の所在を示すらしい。紙の右半はそれだけであとは空白であるが、左半の方にはややゴタゴタ入り組んだ街路がかいてある。不折の家は二つ並んだ袋町の一方のいちばん奥にあって「上根岸四十番不折」としてある」(寺田寅彦『子規自筆の根岸地図』)

「隣の袋町に○印をして「浅井」とあるのは浅井忠氏の家であろう。この袋町への入口の両脇に「ユヤ」「床屋」としてある。この界隈の右方に鳥居をかいて「三島神社」とある。それから下の方へ下がった道脇に「正門」とあるのはたぶん前田邸の正門の意味かと思われる」(前掲書)
 

「もちろん仰向けに寝ていて描いたのだと思うがなかなか威勢のいい地図で、また頭のいい地図である。その頃はもう寝たきりで動けなくなっていた子規が頭の中で根岸の町を歩いて画いてくれた図だと思うと特別に面白いような気がする」(前掲書)

寅彦の文章を読むだけで、子規の地図が目に浮かんでくる。寅彦が、

「頭のいい地図」

と言う表現に、略図を書く力と文章でのスケッチ力のつながりを寅彦が意識していることが現れている。情景をイメージし、大事なポイントを観察して取捨選択する力が問われるのだから地図づくり、俳句づくり、情景の写生とは一体なのだ。

さて、寅彦先生のエッセーはここで終わらない。

やっぱり先生は、我らが TQ Feel°C Walker の先達だった!子規先生の「地図」のことを思い出していたら、根岸まで歩いて行きたくなってしまったのである。

さあ、ここからは、寅彦先生のスケッチに学ぶべく、文章を引用しよう。

「こんな事を書いていたら、急に三十年来行ったことのない鶯横町へ行ってみたくなった。日曜の午後に谷中へ行ってみると寛永寺坂に地下鉄の停車場が出来たりしてだいぶ昔と様子がちがっている。昔の御院殿坂を捜して墓地の中を歩いているうちに鉄道線路へ出たがどもう見覚えがない」(前掲書)

「陸橋を渡るとそこらの家の表札は日暮里となっている。昨日の雨でぐじゃぐじゃになった新開街路を歩いているとラジオドラマの放送の声がついて来る。上根岸百何番とあるからこの辺かと思うが何一つ昔の見覚えのあるものはない。昔の根岸はもうとうに亡くなってしまっている。鶯横町も消えているのではないかという気がして心細くなって来た」(前掲書)

「とある横町を這入って行くと左側にシャボテンを売る店があった。もう少し行くと路地の角の塀に掛けた居住者姓名札の中に「寒川陽光」とあるのが突然眼についた。そのすぐ向う側に寒川氏の家があって、その隣が子規庵である。表札を見ると間違いはないのであるが、どういうものか三十年前の記憶とだいぶちがうような気がする。門も板塀も昔の方が今のより古くさびていたように思われ、それから門から玄関までの距離が昔はもっと遠かったような気がする。もちろん思い違いかもしれない。ただ向う側の割竹を並べた垣の上に鬱蒼と茂って路地の上に蔽いかぶさっている椎の木らしいものだけが昔のままのように見える。人間よりも家屋よりもこうした樹の方が年を取らぬものと思われる。とにかくこの樹の茂りを見てはじめて三十年前の鶯横町を取返したような気がした」(前掲書)

「帰りにはやっぱり御院殿の坂が見付かった。どこか昔の姿が残っているが昔のこんもりした感じはもうない。鶯横町の椎の茂りを見ただけで満足してそのまま帰って来てよかったような気がする。三十年前の錯覚だらけの記憶をそのまま大事にそっとしておくのも悪くはないと思うのである」(前掲書)

どうだろう。TQ Feel°C Walk をどう記録するかの教科書となる文章ではないか。

そして、家に戻ってきてから、現在の東京地図と子規先生直筆の地図とを見比べて、歩いたところを思い出し、確認することを忘れない。

「帰ってから現在の東京の地図を出して上根岸の部分を物色したが、図が不正確なせいか鶯横町も分らないし、子規自筆地図にある二つの袋町も見えない。ことによるとちょうどその辺を今電車が走っているのかもしれないのである」(前掲書)

地図を書いて、知図を作って、文章で情景をスケッチする。そのために俳句を作り、写真を撮り、絵を描く。こうした積み重ねは、単に文章の力を高めるだけでなく、感受し、観察する力を高める。こうして研究・考察の質を高めるということを二人の「師」は示しているのである。

最後に一つだけ気になることがある。子規直筆地図の行方である。寅彦先生は、子規の地図を表装しておかないと、自分亡き後、紙くずとして捨てられてしまうのではと心配していた。寅彦先生のお宅は空襲で焼けてしまった。その時に燃えてしまったのだろうか。

「市川君、残念だけれど燃えてしまったものは仕方ないね」

この声は?寅彦先生?子規先生?

「時空を超えて歩いてみたら見えてくる。それをスケッチしてみたまえ。もちろん地図もつけてね」

本当にそうだ。スケッチを頼りに根岸を歩き、自分なりのスケッチに書き直す。それが表現の系譜を受け継いで真似ぶということだ。

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