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自由学問都市大坂 懐徳堂の生んだ人々

富永仲基、中井履軒、麻田剛立

「江戸」時代と呼ばれたのは「政治」の中心が「江戸」だったから。そして。その中心は「徳川」であり、「徳川体制」の「権威」に拠って立つものが「権力」を握っていた。

しかし、時代の潮流として「貨幣経済」が勃興し、「封建制」による身分固定が、ほころび始める。表向きの権威・権力と実力・実態が乖離していったのだ。

外面のみの「武士」に対し、「お金の流れ」という実権をしっかりつかまえたのが商人。なかでも「天下の台所」と呼ばれた大坂の大商人たちであった。

「お金の流れ」は同時に、最新の文化・技術の流れを呼ぶ。

お金+新しさ=自由な発想

という方程式を具現化した場所として大坂は活気に満ちていた。

政治的権威はもちろんのこと、昔からそうなっているというだけの伝統的因襲をぶちこわす「自由」さ。真面目くさって、深刻ぶるのではなく、笑い=ユーモアで、発想を転換してしまう軽み。これこそ「江戸」時代の「大坂」だった。

しかし「自由」には痛みが伴う。なぜなら

自由=変化+不安定

という方程式と表裏一体だったからだ。

身分制度からフリーとなったさまざまな階層の人々は、収入・地位がまったく保障されていない不安定極まりない境遇に置かれた。にもかかわらず、

「おもろないことはよーせんわ。でも、おもろかったらなんぼでもやりまっせ」

という行動原理をもった、明るく、閉じないオタクたちが集まってきた。役立つかどうか、金や出世につながるかどうかなんて度外視。知的探究心の赴くまま学問を深めたい!というアマチュア野郎を磁石のように引き寄せ、「おもろい知」をつくり出す「変人コミュ二ティ」が生まれた。それが

懐徳堂(写真2だった。

秩序からはみ出て、縁(へり)を生きる「変人」たちが縁(えにし)を結ぶ吹きだまり。こんなへんてこりんの場所をつくったのは、五人の大坂の豪商たち。三星屋弐右衛門、道明寺屋吉左右衞門、舟橋屋四郎右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎。出資金を分担し、身分に関係なく、フツーの人々が集まり、従来の学問に縛られずに自由に追究する場として「懐徳堂」を創設した。

・経済の中心地として、お金も、物も、そして最新の情報が集まった。

・出版が盛んとなり、読書人口が多かった。

・高い技術を持った職人が集まっていた。

という諸条件が整っていた大坂に、懐徳堂というハブができ、大坂の「知」は一気に花開いた。

自由に集まって、おもろいことを、熱く追究する集団に、流派だの派閥は無縁。伝統的権威におもねるプロフェッショナルアカデミシャンは、「鵺(ぬえ)学問」と揶揄したが、どこ吹く風。

※鵺(ぬえ)……頭が猿、胴は狸、足は虎、尾は蛇、鳴き声はトラツグミに似ているという伝説上の妖鳥。

なんでもありという自由な精神があったからこそ、儒学と洋学とを自分たちなりに味付けして融合した独創的な発想と技術が次々に生まれ、有為の人材を輩出した。

「懐徳堂」は、「私」財によって生まれたのだが、「個」に閉じなかった。どこまでもオープンで、パブリックだった。「民間」のアマチュア研究機関としてスタートしたが、めきめきと台頭する「懐徳堂」の実力を「幕府」も無視できず、「公認」のスクールとして取り込もうとした。そのとき、官によって「自由」を奪われてしまうというリスクを承知の上であえて「虎穴」に入り、官許の道を選択した。

もちろん権威にすりより、安定するためではなかった。懐徳堂的学びの目指すのは「パブリック」なのだから、「パブリック」に認められるのは当然という自負があったからだ。官許とは言っても、財政的な補助もほとんどなかったので、懐徳堂に実質的メリットは少なかった。しかし、われらが進む道は、「私」に閉じたトリビアなものではなく、本質を目指す「公道」なのだ!ということを世に知らしめることに大いに役立ったのである。

懐徳堂の目指す「パブリック」は「封建的発想」にも疑いの目を向け、社会変革を起こす自由な市民を育てることであった。幕末に「懐徳堂」のすぐ近くから「適塾」(写真5・6)が生まれ出たのは「必然」だったと言えよう。

「公民」を育てる気概があったからこそ「オープン」に誰もが学べる場をつくった。伝統的儒学が、個人の「天分」という言い方で、所与の身分や境遇に甘んじて生きることを是としたのに対し、懐徳堂は、誰でも、どんなことでも「自由」にとらえ、考える可能性が開かれていた。

一方で、このような「オープンさ」には「徹底的におもろいことを探究する情熱=パッション」と「常に変化し、認識を揺り動かしてゆく不安定さへの耐性=レジリエンス」が不可欠。ゆえに、「パブリック」を変えてゆきたいという理想とは裏腹に、一般からはかけ離れた、特殊な知的空間となり、今ひとつ大衆からはアクセスされなかったのは否めない。

大衆に愛されたのは昔も今もわかりやすさとやりやすさ。当時の庶民教育の大きなトレンドは石田梅岩の「心学」だった。

「懐徳堂はね、言葉でごちゃごちゃいう。でも本当に大事なことは言葉じゃないんだよ。『心学』にことばなんかいらない。日々の道徳的実践の積み重ねだけで十分。あなたの日々の行動を律して、正しい人間に近づこう。そうすればあなたの人生は開ける!」

面白くてわかりやすい「講話」と毎日行える「道徳的実践」。大衆はどうしても梅岩心学に流れた。

「懐徳堂」のアマチュア的探究心は、ストイック。大衆には「おもろい」というより「めんどう」だったのだろう。したがって、裾野は広がらなかった。反面、とてつもなく「おもろい」人々のネットワークができあがったのである。

では、「懐徳堂」の発想の面白さは具体的にどんなものだったのだろうか。何回かに分けて「懐徳堂」が生み出した人たちの思想を見てゆくことにしよう。

● 懐徳堂の「知」の巨人 (その1) 富永仲基

懐徳堂を創設したひとり、道明寺屋吉左右衞門の三男が富永仲基(なかもと)である。32歳の若さでなくなったため、生涯はベールに包まれているが、大正時代に著名な中国学者・内藤湖南が仲基の著作を見出し、大阪の生んだ天才のひとりとして表舞台に現れた。

 

以来、湯川秀樹や加藤周一、そして、最近では松岡正剛が高く評価している。

 

では、仲基のスゴさがどこにあるか。それは「あたりまえの理」を見抜いたところだ。「王様は裸だ!」と見抜いた少年のごとく、コロンブスの卵のような「発見」こそ大事だと「あの」時代にさらりと言ってのけたのだ。

 

当時の朱子学(儒学)、神道、仏教、すべてが、

 

「過去の言葉は絶対。過去の言葉の真意・本質をただ覚えよ」

 

と教えていたのに対し、

 

「言葉というものは、人間によって使われることではじめて意味を獲得する。ゆえに人間の認識を超えた本質的意味が実在するなんてことはないよ」

 

と考えた。なんと18世紀の初頭!パースが生まれる100年前。ヴィトゲンシュタインの現れる200年前。まさに商人=実学的精神が底流にあったがゆえのプラグマティックな思想が芽生えていたのだ!

 

仲基が、著書『出定後語(しゅつじょうごご)』に書き残した、コロンブスの卵的「発見」は、「加上」という発想であった。

 

「加上」とは字のまま。「上に加える」ということ。つまり、現代語られている諸説は、さまざまな人々の考えが、地層のように重なり、時に起こる地殻変動によって意味が「上に加わり=加上し」て、変容してきた集積物に過ぎない。ぶっちゃけ、もともとの始まりがどうだったかなんてわかりっこないのだ。思想家とは「われこそは真実を知った」と考える人たちで、もともとの「説」をなんとか上回ろうと躍起になり、あえて述べられていないことを言ってみたり、ある部分のみを強調して切り出したりする。だから、はっきりわかっているかのようにひとつの「説」を「本質」とする人たちはうさんくさいよと言い放ってしまったのだ。

 

この発言に対し、仏教者、神道関係者、そして本来、懐徳堂の思想基盤でもあるはずの儒学からも大バッシング。今風で言うなら大炎上した。

 

懐徳堂と対立する、江戸・官学を代表する学者・荻生徂徠も、教説は先行する諸説との論争によって変容してゆくことは認めていた。ところが、徂徠が、そんな変化にも不動の「絶対」があるとしたのに対し、仲基は一貫して「相対主義」を唱えた。こうして展開される仲基のアイデアは、認知哲学的で、たまらなく面白い。そのアイデアは「三物五類」と呼ばれた。

 

「三物」とは、「人・世・類」という三つの姿で言葉をとらえようということ。「人」とは、どの立場にあるか、どの派閥にいるか、どんな個人なのかによって同じ言葉であっても、意味をどうとらえて発するかは異なってしまうということ。「世」とは、個人=人だけでなく、地域的・歴史的にも言葉の意味は変化するということ。

 

従来の学問や宗教は、古来の言葉の中に「これぞ本物」というものを見出し、こういった言葉のみを頭ごなしに覚え、使え。新たな使い方など考えることはおこがましいとした。しかし、仲基は、なにが本当で絶対かなんて明らかにできっこないんだから、どう言葉が変化するかという法則をおさえた方がいいと考えたのだ。それが言葉を「類」としてとらえるということ。その「類」に五つのパターンがあるので「五類」と言った。

 

言葉が変容してゆくパターン1は「張」。ある言葉の意味の範囲がだんだん拡張されてゆくこと。たとえば「道場」はもともと宗教的な修行を行う場のみを指したが、今では、訓練する場の意味としてどんな場合でも使える。

 

パターン2は「泛(はん)」。この字は「泛(う)かぶ」と訓読みできて、水面にぷかぷかういているイメージ。つまり、ひょんなことから固定的な意味から解き放たれて一般的に使われるようになるのが「泛」である。「和」とは「大和」というある一地方・一部族の名称だったが、やがて日本・日本人全体を指す。「固有名詞」が概念化され「普通名詞」となる変化である。

 

パターン3はその逆で「磯(き)」。この字は「磯(いそ)」と訓読みできるように、激しい波がぶつかる陸地の端っこの岩場を意味する。ぷかぷか泛かぶ波がぶつかってできる切り立った陸地とは、つまり、一般的なふわっとした意味から、ある特殊な意味のみだけを激しく強調・限定して使うこと。「自然」は、その好例で、「自ずから然り」という何かが自ずと動き出し、ある秩序を持つようになるという広い意味を持ったが、今では、自然環境という意味での「自然」として専ら用いられる。

 

パターン4は「磯」のもっとも極端な変化で、まったく逆の意味合いに用いられるようになる「反」。「挑発」 という言葉は典型例のひとつ。相手を怒らせるという悪い意味が本来だったのに、認識をゆさぶり、別の見方を気づかせる働きかけの意味を持つようになる。

 

以上、4つのパターンが変化の形を示したのに対し、5つ目のパターンは時間的空間的な変化があっても変わらない、ベースとなる根本的な使い方を「偏」と呼んだ。ちなみに「偏」とは「ひたすら・いちず」という意味であり、もともとの意味にこだわる認識の働きを指している。

 

この5つの他に「転」というパターンについても述べているのだが、そもそも仲基は、「本質ありき」ではなく「人の認識」によって言葉の意味が「転」じ、生じると構想しているのだから、5つのパターンを綜合する概念が「転」と言えるだろう。

 

言葉の意味は多義的で、不確定である。「万物は流転する」ということこそ「本質」で、不変で普遍の「絶対的本質」はない。むしろ、人が自然の中で言葉を用いて生きるというのは、無常・変化を受け容れて、変化によって新しいものを創造してゆくことなのだと考えた。そのためにも、何が本質かを求めるのではなく、どう変化するかをつかまえ、推理するための認識のメガネとして「三物五類」を意識することの重要性を主張したのだと私は思う。

 

「今の文字をかき、今の言をつかい、今の食物をくらい、今の衣類を着、今の調度を用い、今の家にすみ、今のならわしに従い、今の掟を守り、今の人に交わり、もろもろのあしきことをなさず、もろもろのよきことを行うを、誠の道ともいい、また今の世の日本に行わるべき道ともいうなり」(富永仲基『翁の文』)

 

思い込みにからめとられず、決めつけず、今、ここをしっかり見つめて生きよ。聖なる言語、絶対的本質に縛られ、規範の中に生きるのではなく、あたりまえの人々が、あたりまえに考えてゆく中で理を発見し、つくりだしてゆけという仲基からのわれわれへの強いメッセージ。

 

「ああ、私は身分も卑しく、病に冒されている。私が死ねば、この説も伝わらず消えてしまうのだろうか。私はすでに30歳になった。願わくば、この本を四方に通じた大都会に伝え、そこから韓国、中国へ、そして中国の西の諸国をへて、釈迦の生まれた天竺へも伝え、すべての道の教説において、人を益することができれば、私が死んでも、私の説は朽ち果てずに残るであろう」(富永仲基『出定後語』序文)

 

彼の一族の墓は残っているが、彼自身の墓は見つかっていない。代わりに今、上町台地・夕陽ケ丘から口縄坂をくだって松屋町筋に面した西照寺に、供養碑が建てられている。

 

昨年、2015年は、仲基の生誕 300年だったというのも何かの因縁か……とはいえ、懐徳堂の人々は「無鬼」論者で、目に見えぬ魂の存在などは信じないが、人が何かに見えない「気」のようなものに動かされる存在であることを否定しない。「今」の人が、「今」のこととして仲基、そして懐徳堂文化を考えることはますます重要なことだと思うようになってきた。

● 懐徳堂の「知」の巨人 (その2) 中井履軒

懐徳堂は、五人の豪商たちの手によって創設され、三宅石庵を初代学主とした。官許の学問所となり、2代目学主に中井甃庵(しゅうあん)が就任。以後、中井家一族が中心となって懐徳堂の運営がなされた。そして、甃庵の2人の息子、竹山、履軒の代に黄金時代を迎える。

竹山は長男として、学主を受け継ぐことになるが、次男の履軒は、懐徳堂内に確固たる地位を占めることはなく、30代半ばに懐徳堂を出て、水哉館という私塾を開き、大坂市内の借家を転々とした。しかし、これこそ学びに集中できる環境だったのであり、自由にひたすら探究の道を歩んでいった。

履軒の仕事で「おもろい」のは、粗末な借家の二階に『華胥国(かしょこく)』という架空の国をつくりだしたことだ。

華胥国とは、中国の黄帝が夢の中で遊んだという理想の国の名前。履軒は、この名を借りて、想像の物語を編んだ。

「華胥国の広さは、極めて小さく、また極めて大きい。これを小さいといえば、人一人が膝を入れるほどしかなく、これを大きいといえばこの宇宙を包むほど大きい」

現実の世界とは異なる想像世界をつくって、そこに逃げ込むのではない。架空の国家での物語をリアルに描くことで、現実世界を大いに皮肉り、批判することができた。

現実のど真ん中にアナザーワールド。これぞファンタジーの発想である。

夢も現実も、過去も未来も、時空を超えて大いに遊ぶ。思いっきりパロディーとアイロニーを駆使したということは、これを理解し、共感する仲間がいたということ。

「なにをまあそんなにお怒りですか?だってこれウソですよ!」

と確信犯的に、直接言ったらはばかられることを、寓話に託して表現する。これこそ物語の心だったのである。

ダメダメな世の中、情けない権力者達を「笑い」と「アイロニー」でこてんぱんにこきおろすには、しっかりとした現実観察と、本質を見抜く目がないといけない。

借家で貧しく暮らしつつ、思いっきり想像の翼を広げて、理想社会の姿を物語化した。指輪物語やスターウォーズばりのファンタジー世界を思い描いていた履軒。もし「映画」というテクノロジーを手にしていたら世界的メガヒットとなる映画『華胥国物語』をプロデュースしたであろう。

● 懐徳堂の周辺に集まった知の巨人 (その3)麻田剛立

 

懐徳堂は「朱子学」を学びの根本に置いていた、しかし、荻生徂徠や、従来の「朱子学」をただ守り、従うものではなかった。常に「今」としてとらえ、「現実」を別の視点から眺める柔軟性を持ち、朱子学の「いいところ」は参考にするが、それ以外の考えであってもどんどん学び、取り入れる余裕があった。

 

これぞ「鵺(ぬえ)学問」の真骨頂ではないか。なんでも自分たちのおもろいように料理する。懐徳堂の学びを大いに活性化したのが、当時、大坂に流入してきていた「洋学」の知識だった。

 

懐徳堂を飛び出した履軒のところに、一人の男が転がりこんだ。その名は麻田剛立(ごうりゅう)。豊後杵築藩の侍医という恵まれた地位にあったにも関わらず、天文学の観測に専念したいという強い思いを捨てきれず、出奔し、大坂へ流れてきたのだった。以後、ひたすら天文学と医学の探究にあけくれ、大坂洋学の礎を築いた。

 

話の本筋からはちょいとズレるが、剛立が天文学に残した功績の大きさは、月のクレーターに Asada = 麻田 と名づけられていることからもわかるだろう。

 

剛立の才能を、博物家で収集家の木村蒹葭堂(けんかどう)や履軒の兄・竹山も認め、剛立から学び、また剛立の研究をサポートした。

 

豊後には、剛立の親友、三浦梅園という知の巨人がいたが、梅園は中井兄弟とも懇意であり、剛立は大坂に来る前に、中井兄弟を訪ねてお世話になろうと決めていたのだろう。

 

剛立の学びのスタンスは、どんなに細かいこともおろそかにせず、自分の目で確かめ、実地実測すること。そうすれば「理」は後からついてくるという強い学問的信念を抱いていた。やがて、剛立が、履軒の家を出て私塾を開いたとき塾の名を「先事館」としたぐらい「まず先に事実あり!」という強い信条を抱いていた。そんな剛立とファンタジーに燃える履軒が仲良くならないわけがない。意気投合した二人は、来る日も、来る日も、天体観測と解剖の日々。親友の梅園に宛てた手紙には、犬一体の解剖に三昼夜かけたと書かれていたと言う。履軒は、研究に没頭する剛立を助けるべく、優れたスケッチと文章で観察記録を残した。解剖と計測に没入する剛立の傍らで、目をらんらんと輝かせて見守り、記録をとる履軒。二人の探究者の姿がありありと見えてくる。Field Work と Fantasy Work とが融合した「ザ・探究」ではないか。

 

先端科学に必要な機器を提供したのは蒹葭堂。顕微鏡や望遠鏡といった機器を剛立や履軒に貸し与えた。すると、道具自体がどうできているかの探究が始まり、さらに、もっとよい道具をつくれないかという探究に発展する。これを支えたのが、高い技術力を持った、腕の立つ大坂の職人だった。

 

懐徳堂をハブとしたアマチュアたちの「知的ネットワーク」から、自ずと伝統的朱子学から逸脱した独特の自然観が生まれる。朱子学ならば「天理」と名づけられた「絶対的な力の本源」によってすべてが決められていると考える。しかし、洋学によって味付けされ、自然の「理」と人の「理」という2つの「理」を分けて考え、2つが因縁しあって世の中の動きが生まれると考えるようになった。ナチュラルサイエンスという考え方が組み込まれたのだ。

 

剛立は、単に洋学を吸収するだけでなく、自分なりのアイデアを加味しつつ、実地観測を地道に続け、日食や月食の起こる日を予測し、正確な暦をつくりだした。そして、驚くべきは、事実観察の末に後の「ケプラーの第三法則」とまったく同じ「理」を独自に発見していたのだ。また、解剖学に置いても、後の適塾につながる基礎を築いた。

 

一方、履軒の『華胥国物語』は、最新のサイエンスを盛り込んだ、極めてリアルでハイレベルのファンタジー作品になっていったのである。

 

それにしてもほぼ一年前、学習院に正剛先生の『大拙と幾多郎』講演を聞きに行き、三浦梅園の存在を知って、ちょっと調べてみたのだった。それが今、再び、つながってきたぞ。

 

福澤諭吉は中津。梅園は国東。そして剛立は杵築。庶民に開放した懐徳堂的学び舎「咸宜園」をつくった広瀬淡窓も豊後=大分出身。知と学びの源としての大分と大坂とのつながり。探究はどこまでいっても終わらない。