Return to site

トレイルズ 「道」と歩くことの哲学

ロバート・ムーアの本を読んで

トレイル。何もないところを何者かが歩いてできた痕跡。それが次に訪れた何者かによって踏みかためられ、道となる。

トレイルは、自然と動物、動物と人間との相互の関わりの中で生まれる。決して、人間の意志だけでつくられたものではない。むしろ、動物たちのいわゆる獣道を追って、さらには獣たちの道を追い続けた先住民の知恵の結晶である道を追って、私たちの道は形成されてきた。

シカやゾウは、美味しい餌に通じる、そしてあまり体力をロスせず峠を超えたり、湿地を回避したりする最適・最短ルートをたどる。先人はそのルートを発見し、我々にとっても快適な道をつくることができた。「意図」よりも「後追い」「追跡」の結果なのだ。

動物は何物か有益なものがない限り、トレイルをつくらない。トレイルは、有益な価値を私たちに知らしめる「外在的記憶装置」である。さらには、

「こっちにはこんな素敵なものが、あっちにはあんな面白いものがある」

という象徴的な意味をトレイルは伝えるようになる。ヒトのみが象徴を解するわけではない。むしろ動物とともに原野や森林を歩き、影響を受けることによってヒトは文化を進化させていったと見るべきであろう。

ハンターはシカの残した痕跡を追い続けて、シカのこと以上の自然の摂理を学んだ。羊飼いは羊にふりまわされて学んでいった。決して羊は人の意にただ従って飼いならされたわけではない。

「道のシステムはおそらく世界最大の文化的遺物だろう。多くの先住民にとって、トレイルは単なる移動のためのものではない。それは文化の静脈であり、動脈である。口承伝承に依存する社会にとって、土地は植物学、動物学、地理学、語源学、倫理、系譜、精神、宇宙論、そして神秘などに関する書物を収めた図書館の役割を果たす。そうした素晴らしいアーカイブへと人を誘うことで、トレイルはそれ自体が豊かな文化的創造物や知識の源になる」(p.177)

動物は、歩く抵抗が少なく、食物の確保につながる最適の道をトレイルとして痕跡づける。しかし、人間は、どう考えても遠回りの山の頂きに向かうトレイルをつくる。そこが私たちを聖なる気持ちにさせてくれるところ、祈りを捧げたくなる場所、美しいと感じる場所だったら、平気で横道にそれる。一人の変わり者だけが脇道にそれただけなら、道の記憶は残らない。多くの人々が共感し、普遍的な気持ちを抱くからこそトレイルとして残った。同じ時代を生きた人間だけでなく、時間を隔てて、異なる人たちに文化的な記憶を伝える。場所は、アートとなり、トレイルによって意味のネットワークとして結びつけられるのだ。

ある場所の記憶とそこからの移動とともに起こる出来事を物語る中に、膨大な情報と知恵が織り込まれている。

「歩くことがトレイルをつくる。そしてトレイルは景観を形づくる。そして時間がたつにつれ、風景は共通の知識や象徴的な意味のアーカイブの役割を果たすようになる」(p.217)

ロバート・ムーアは、これを「トレイル・ウォーキング文化」と呼び、現代の「ロード・ドライビング文化」と対比させている。

「土地は資源だけでなく物語や精神、聖なる結び目、先祖の遺骨などを含むようになる。それと同時に、人々とのあいだに、自分たちの生活は土地が生んだものに依存しているという深い認識が育っていく。人と土地は織りあわされ、もはやほとんど区別できなくなる」(p.219-220)

歩いて、泥を道に変える。泥の道が私たちの思考を形作る。泥と思考の混合。

「時間とともに、足跡のようにより多くの思考が重ねられ、新たな意味が加えられる。トレイルは単なる移動の跡ではなく、文化を伝える経路隣、人と場所と物語をつなぐ。そしてトレイルを歩く人の世界を、たとえ脆くとも、ひとつにまとめる」(p.220)

しかし、原野を貫く「自然」のトレイルはもはやない。

「(トレイルが知らせた)知識の体系は、ほとんどが帝国主義による侵略を受け、アスファルトの下に踏みかためられてしまったが、そこへ通じる細い道はまだ森のあちこちに走っていて、探す場所さえわかっていれば見つけることができる」

そう。ここでもうひとつ大事なことを私たちはトレイルから学ぶ。そもそも「荒野の自然」と「人間の文化」という対比こそがおかしいのでは?ということ。人為によって自然が改変されたというが、では、自然のまま残すなどということが、地球の営みの中にあるのかということだ。

十五年以上の間に、五万四千キロのトレイルを歩いた伝説のハイカー、「ニンブルウィル・ノマド」ことM.J.エバーハートは、こう言う。

「(原生林のある自然と私たちの日々生活する文明の間にある)壁は、自然にそこにあるものじゃない。わたしたちがつくるものだ。安らぎや静けさ、孤独や理由を見つけるためにオリンポス山の頂から景色を眺めなくてはならない人がいるとしたら、その人は完全に人生を見失っている。それは麓のシアトルのダウンタウンの道の真ん中にだってあるものなんだ。わたしはそういう壁を壊して、人生を分けるのをやめ、昨日歩いて通り抜けたラッシュアワーの渋滞のなかにも同じだけの安らぎと喜びを見つけられることを目指してきた」(p.342)

地殻も、微生物も、アリも、シカも、ゾウも、そして人間も、様々な動植物や地球自体の運動、天候といったものが不断に入り混じって、「自然のまま」などと止まっている瞬間はない。

自然に生きるということと、人と自然とを分けてナチュラリスト然として生きることは違う。私たちはどうしようもない自然システムの一部として、動物や植物、そして文明のもたらすものの流れの中で生きていかざるを得ない。その諦念に裏打ちされた倫理観を持ちつつ、些細な物事のなかに喜びを見出すこと。これこそ自然で、幸せで、無邪気に生きることであろう。

街を歩いて、思索して、試作して、足跡の地図としても、思考の知図としても現していく Feel℃ Walk でいいっていうことじゃないか。

All Posts
×

Almost done…

We just sent you an email. Please click the link in the email to confirm your subscription!

OKSubscriptions powered by Strikingly