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歩く民俗学者 宮本常一に学ぶ

宮本常一の「あるく」

「宿直の終わった朝郵便局を出て、青く澄んだ空を見ると、宿へは帰らないでそのままどこかへいってしまうことがあった。財布に多少でも金があれば電車で郊外に出るが、金のないときは大阪市内をどこまでも歩いた。腹が減ると食パンを買ってたべた。大阪のその頃東区とよばれていた範囲の街路はほとんど歩きつくしたといってよかった。そのほかの区へも足をのばしていった。夜になると町に夜店の出るところが多かった。そういう夜店も歩いて見た。なぜそうしたのか。ただ歩くことが好きであり、働いている人の姿や顔を見るのが好きであった」(郵便局員時代)

「私は体操や図画や唱歌の時間を利用して子供たちを連れてよく校外へ出た。そして丘の上であそんだ。私の生涯の中でこんなにのびのびとたのしかったことはなかった」(小学校教員時代)

「日曜日には子供たちと村を中心にして10キロくらいの範囲を歩きまわった。『小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておく事だ。それが生きる力になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると、もうこんなに歩いたりあそんだりできなくなる。いそがしく働いて一いき入れるとき、ふっと、青い空や夕日のあたった山が心にうかんでくると、それが元気を出させるもとになる』子供たちによくそんな風に話した」(小学校教員時代)

「私自身にとって歩くというのはどういうことだったのか。歩くことが好きだったのである。歩いていていろいろのものを見、いろいろのことを考える。喉がかわくと流れの水を飲み、腹がへると木の実やたべられる植物をとってたべた。人にあえば挨拶をした。そのまま通りすぎる人もあるが、たいてい五分なり十分なり立ち話をしていく。それがたのしかった。その話というのはごくありふれた世間話であった。要するに人にあい話をすることが好きだったのだろう。同時にまた人の営みを見るのが好きだった」(小学校教員時代)

「山の中を歩いていて小松山の中へはいると、かならず松の樹齢を見る。松は一年に一節しかのびないから、大体の年数がわかる。和泉山地の松山には百年をこえる木は少なかった。それではそれ以前には何が生えていたのだろうか。またなぜ伐ったのだろうかと考えてみる。松以外の木があるところではなぜそんな木があるのだろうと思ってみる。人はよく山地を自然だというけれど、人の手の加わらない山地は和泉地方にはほとんどなかった。そしてそこには自分たちの生活に役立つ木を植えていたのだが、どんな生活に役立てたのであろう。木を見あげながら小半時も考えてみることがあった」(小学校教員時代)

「途中は汽車を利用したが歩きはじめると歩けるところまで歩いた。そうしたたびには知人のいることは少ない。だから旅に出て最初によい人に出あうまでは全く心が重い。しかし一日も歩いているときっとよい人に出あう。そしてその人の家に泊めてもらう。その人によって次にゆくべきところがきまる。その人の知るよい人のところを教えてもらう。そこへやっていく。さらにそこから次の人を紹介してもらう。しかしその先が続かなくなることがある。そうすると汽車で次の歩いてみたい場所までいく。そしてまた同じように歩きはじめる」(民俗調査の旅)

「歩けばそこに何らかの私なりの発見があり、教えられるものがあった」(戦後の農漁村をあるく)

「とにかく自分の眼でたしかめてみることが何より大切である。それも漫然と歩くのではない。何かテーマを持って歩くようにすすめている。すると一カ所へ一回だけいってそれでおしまいにするということがなくなる。かならず何回も行って親しい人ができる。中には親類のようなつきあいをしている例も多い。そしてその体験を発表するための『あるくみるきく』という小さな月刊誌をもう十年あまり出しつづけている」(若い人たち・未来)

宮本常一の「みる」

「郷里から広い世界を見る。動く世界を見る。いろいろの問題を考える。私のように生まれ育ってきた者にとっては、それ以外に自分の納得のいく物の見方はできないのである。足が地についていないと物の見方考え方に定まるところがない。戦後のひととき転向ということが問題にされた。しかし転向を必要としない物の見方もあっていいのではないかと思う。ふるさとは私に物の見方、考え方、そして行動の仕方を教えてくれた。ふるさとがすぐれているからというのではない。人それぞれ生きてゆく道があるが、自分を育て自分の深くかかわりあっている世界を、きめこまかに見ることによって、いろいろの未解決の問題も見つけ、それを拡大して考えることもできるようになるのではないかと思う」(私にとってのふるさと)

※勤務先の小学校の近くに釘無堂という国宝の仏像が二十体ほどある寺があった。ここに宮本常一は通いつめた。
「私はこの寺に何十回というほど参った。参るたびに何らかの発見があった。そしてこの寺の仏像を基準にして他の寺の仏像を見たのである。仏像を見ていると時代とか手法とか服装や持ち物などにいろいろわからないことが出てくる。そのわからないものをつきとめようとするとき釘無堂へいって見る。するとわからないことがわかるいとぐちが見えてくることが多かった。その体験は貴重であった。とにかくこれぞと思う寺の仏像を心の中に焼きつけておいて、それをたよりにいろいろの仏像を見ていくと、他の仏像の中から多くのことを教えられるのである。どんなものを見ていくにも基準になる具体的なものを持つことが何よりも大切であると教えられた」(小学校教員時代)

まずは、歩き、そこで見ることで知識を作ってゆく姿勢。これは宮本常一が父から学んだことだった。

「仕事を休んでいるとき、父は頂上から見える中国地、四国地の山々、海にうかぶ島々の一つ一つについて話してくれる。いったい父はその知識をどこで得たのであろうかと思うほどいろいろのことを知っていた。これほど私の知識を豊富にし、夢をかきたててくれたものはない。自分の周囲の誰よりもゆたかな知識を持っている父を畏敬した。そしてそれは小学校へろくにやってもらえなかった人とは思えなかった。本を読んで得た知識ではなく、多くの人から聞いたものの蓄積であり、一人ひとりの人が何らかの形で持っている知識を総合していくと、父のような知識になっていったのであろう」(父)

宮本常一の「きく・かく・はなす」

「中年以上の男の多くは皆出稼ぎの経験を持っており、旅さきでの見聞が話題になった。おそらく中世の説話文学もこのような環境の中で生まれたものであろう。文字を持たない社会では口頭の伝承が厚い空気の層のように私たちを包んでいたといってよいのではないかと思う」(私にとってのふるさと)

「私が年寄りたちからいろいろの話を聞くようになったとき、明治維新以前のことを知っている人たちとそうでない人たちの間に話し方や物の見方などに大きな差のあることに気付いた。たとえば維新以前の人たちには申しあわせたように話しことばというよりも語り口調というようなものがあった。ことばに抑揚があり、リズムがあり、表現に一種の叙述があり物語的なものがあった。維新以後の人たちのことばは散文的であり説明的であり、概念的であった。そしてその傾向が時代が下がるにつれて次第に強くなる。知識を文字を通して記憶していくようになると、説明的になり散文的になっていくもののようである。こうした旅にもそれをはっきり知ることができた」(民俗調査の旅)

「屋久島の年寄りたちの話は語り物を聞いているような感じのするものが多かったが、今『屋久島民俗誌』を読みかえしてみると、私はそれをすっかり散文にし箇条書きにし、また聞いた話を私なりに分解してしまい、ことばそのものの持っていたひびきのようなものは洗いおとしてしまっているのである。そこに住む人たちの本当の姿を物語るのは話の筋ーーつまり事柄そのものではなくて事柄を包んでいる情感であると思うが、そのような形で聞き取りを整理したものはほとんどない。物を調べ、それを文字で再現することがどんなにむずかしいことか。しかしその頃は情感的なものを洗いおとして鹿爪らしく散文的に書くことが学問として価値あるように思ったのである」(民俗調査の旅)

「私自身はよく調査にいくとか調査するとか、調査地などといっているけれども、実は正真正銘のところ教えてもらったのである。だから話を聞く時も『一つ教えて下さい。この土地のことについては(あるいはこの事柄については)私は全く素人なのですから、小学生に話すようなつもりで教えて下さい』と言って話を聞くのが普通であった」(民俗調査の旅)

「私はその話が納得できるようなものであれば他へもっていって披露した。それが私のように旅する者の役目だと考えた……(中略)……私はみずから伝書鳩といって、人びとの間をわたりあるいた」(民俗調査の旅)

「民俗誌ではなく、生活誌の方がもっと大事にとりあげられるべきであり、また生活を向上させる梃子(てこ)になった技術についてはもっときめこまかにこれを構造的にとらえてみることが大切ではないかと考えるようになった」(雑文稼業)

「村を歩いて年寄たちばかりでなく、中年の人も若い人も一番関心の深いのは自分自身とその周囲の生活のこと、村の生活のことである。民俗的な事象を聞くことについて喜んで答えてくれる人は多いのだが、その人たちの本当の心は夜ふけてイロリの火を見ていて話のとぎれたあとに田畑の作柄のこと、世の中の景気のこと、歩いてきた過去のことなど、聞かれて答えるのではなくて、進んで語りたい多くを持っていることであった。人はそれぞれ自分の歴史を持っているのである。まずそういうものから掘りおこしていくこと、そして生きるというのはどういうことかを考える機会をできるだけ多く持つようにしなければいけないと思った」(雑文稼業)

「大道芸の面白さは舞台を持たないことである。観客は輪になって囲む。芸人には裏も表もない。自分のすべての姿を見せる。見る方も輪になることで仲間意識を持つ。考えてみると、私の幼少の頃までは、人が集まると輪になることが多かった。輪になって話しあったのである。すると余程無口な者でないかぎり発言した。座席にも発言にも上下はなかった。人が向かいあって話すような機会は少なかった。しかし教壇で生徒を教える時は向かいあい、いろいろの演劇や芸能も舞台でおこなうのを客席で見るというようになって演者と見物の間に一線が画されるようになった」(若い人たち・未来)

宮本はこうした意識を持ち、きき、かき、かたりあったのであるが、何よりも自分が、小さい頃から鍛えられた百戦錬磨の「百姓」であり、相手と同じ立場で、相手とともに当事者・仲間意識を持って語り、考え、行動したからこそ、貴重な情報を掘り起こすことができたことを忘れてはいけない。単なるテクニックを身につけたのではないということを。

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