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ルソーとソロー 二人の散歩者から学ぶ

ルソーとソロー 二人の散歩者から学ぶ

日曜日、鎌倉駅西口のたらば書房に寄る。眼に飛び込んできたのが「野生の学舎」の文字。即買い(今福龍太『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』)で、途中で止まってたルソーの『孤独な散歩者の夢想』(岩波文庫)本と並行読みする。

18世紀、「市民」の誕生に「期待」し、それを後押しする「理論」を打ち立て、大きなムーヴメントを起こしつつ、結局は「社会」に利用され、裏切られ、「孤」に追いやられたルソー。どこまでも真面目で一途だ。

一方、19世紀、「国家」や「産業」にからめとられてしまう「市民」の欺瞞を看破し、「孤」として豊かに生きる道を選んだソロー。「俳」の思想を持ち、淡々・飄々と生きる。

政治的迫害を受け、ずたずたになったルソーと、政治をそもそも信用せず、排除されても意に介せず、どこまでも個の自由を追究するソローのコントラストが際立った。

二人とも「自然」を大事にし、人知を超えた higher law に耳を傾ける「知性」を持つことを訴えた。さらに、どちらも「歩く=散歩・逍遥」ことで「思索」を深め、博物学的関心が強かった。

精神的に追いつめられ、被害妄想になっているような記述の中に、スイスの湖に浮かぶ小島に逃れ、「自然」と深く交流したときの思い出を語る部分があった。晩年のルソーに訪れた、束の間の「絶対的幸福感」。なんだかジンときた。

「ときどき、この世のことのはかなさについての漠然としたみじかいあいだの反省が浮かんできて、湖水の面に世の姿を示してくれる。しかし、やがてそれらの淡い印象はわたしを揺すぶっている一様の連続運動のなかへ消え去る。この運動は心の積極的な協力を全然必要としないで、しかもわたしをつよく惹きつけ、時刻と合図にうながされてそこから立ちあがるにも努力を必要とするくらいだった」(ルソー『孤独な散歩者の夢想』第五の散歩 p.86)

「過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、そういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。それは生の快楽のうちにみいだされるような不完全な、みじめな、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福なのであって、魂のいっさいの空虚を埋めつくして、もはや満たすべきなにものをも感じさせないのである」(前掲書 p.87-88)

ただ砂浜に座り、ただボートの上であおむけになり、川のほとりでせせらぎに耳を傾けてすごし、ぼんやり湖水の波を眺めている。自然と一体となって「没我=脱自」することが、ルソーの自己探究の行き着いた先であった。

「山登りなどやめて、家で生活しながらいつでも旅人でいることです。日々の些細な出来事が私たちに教えてくれることで何一つ無駄なものはありません。散歩の道に散り敷かれた枯葉一枚一枚こそ、私が旅に出て発見しようとしたものでなくて何でしょう。どこまで遠くへ行くと旅したといえるのか。誰にもわからないのです。自分の住処ではないどこかにきっと黄金郷があると考えるのは愚かなことにちがいありません」(1859年元日・ハリソン=ブレーク宛ソローの手紙)

思索するためでも、社会から逃避するためでもなく、旅人のように住み、Feel ℃ を高めるために日々歩く。すでに引かれた道ではなく、発見を求めて「道を外れて」歩く。

「私は別種の学校において自分の教育を成し遂げたいのです」(ソロー『原則なき生活』)

私の心が見透かされているかのように、ルソーとソローが語りかけてくる。「古典」は生きている。

ソローの言葉の抜粋

「智慧は調べず、ただ見守るのである。われわれは、見る(=知る)ことができるようになるまでには長いあいだ見つづけねばならない」

「理性だけでできた散文的人間は、不毛で、実を結ばない雄花である」

「野生にたいして鋭敏でありつづけること。人間が、自らの冒した自然にたいして真摯であるためには、自覚的なかたちで「野生」への信頼を文明のなかにふたたび喚び出さねばならない」

「野生 Wild の人間とは、意志をもった Willed 人間のことである」

※注:「ワイルド wild」の語源は「ウィル」の過去分詞「ウィルド willed」。この場合の「意志」とは自然界のあげる声のこと。森羅万象のなかに表明された自然の「意志」を正確に聴きとって活かすことが人間に求められていることなのだ。人為を超えた自然の「意志」こそが「野生」ということ。

「政治と道徳は別物であること、政府は道徳上の正義を保証できず、便宜的なことしか考えられず、当選の見込みのある候補者ーーそれはいつも悪魔なのだがーーを選ぶことしかできないということを、人類は永久に悟らないのだろうか?必要なのは政策 policy の人ではなく、清廉 probity の人である。憲法や多数の決定ではなく、より高次の法 higher law を認める人である」

「自分の投票権のすべてを行使しなければならない。それは単なる一片の投票用紙のことではなく、自分の影響力のすべてを投じるという意味においてである」

「風の凪いでいるところに雪の吹きだまりができるのと同じく、真理の風が凪いでいるところに制度が出現するのだ。しかし真理の風は制度の上をいまなお吹き荒れており、ついには制度を吹き倒してしまうのだ」

「われわれは大地にへばりついたまま、めったに高いところへ登ろうとしない!もう少し自分自身を高めてもいいのではないだろうか。せめて木登りぐらいしてみることだ」

「春、霜がもちあげた杭を農夫がふたたび土に打ち込むように、言葉をその根源的な意味のなかにしっかりと固定できる者こそ詩人である」

「経験の後をすぐ追いかけるようにしてついていってはいけない。詩とは、心が受けとめた印象と、それを記述する言葉とのあいだに、ある間隔を置く行為である。詩は、種子が自然に発芽するのをじっと待っているのである」

「いかに選び抜かれた古典であろうと、書物のみに没頭し、それ自身が方言や地方語にすぎない特定の書き言葉ばかり読んでいると、比喩なしに語る唯一の豊かな標準語である森羅万象のことばを忘れてしまう恐れがある」

「ケンブリッジ図書館で一日をすごした。図書館とは、本でできた広大な原生林だ。重要なのは、あるテーマに関してどの本を読むべきかを正しく見極めることである。それについて書かれた本は千冊もあるかもしれないが、ほんとうに読む必要のあるものは三、四冊にすぎない。そうした本は本質的なものをすべて含んでいる。だからわずか数ページ読むだけで、その本がどっちであるかがわかるだろう。あなたが求めているのは、真に本と呼ぶべき本の力である。千冊のなかのたった数冊だ」

「五感が清明で純化されているとき、私たちは大気のなかに音楽の調べをかならず聴くのだ。太陽とともにめぐりながら、この天球のまわりにうずまいている音楽を」

「『自然』のただなかで暮らし、自分の五感をしっかりと失わないでいる人間であれば、ひどく暗い憂鬱症にとりつかれることなどあり得ない。健康でけがれのない耳には、どんな嵐も風神アイオロスの音楽のように聞こえたものだった。純朴で勇気のある人間は、なにがあろうとむやみに低俗な悲哀にうちのめされたりはしないのである」

「線路脇の土手を歩いていると、凍りついた土を踏みつける自分の足音が静寂を邪魔する。私が聴いていたのは夜のしじまなのだ。耳に栓をして歩くことはできない。静寂とは創造的なものであり、聞き耳をたてねばならないものだからである。立ち止まり、耳を澄まして、夜が私に与えてくれる印象、すなわち町があげる騒音の彼方から聞こえてくる豊かで能弁な沈黙を聴き取らねばならない。沈黙のなかで無数の声がささやきをあげている。聴くに値するのは沈黙だけだ。沈黙は土壌と同じく、その内部に深みと肥沃さをたっぷり宿している。沈黙は響きわたる。それは音楽的なもので、私を震わせ、ぞくぞくさせる。夜になると、沈黙は人間にも聴き取れるようになる。私が聴いているのは、言葉では表せない何かなのだ」

「音楽は自然の血管をめぐる血流の音である。それは自然を溶かす流れそのものである。人間はそれにあわせて踊り、ガラスは振動して鳴り響き、草原は波のようにうねる。健康な耳は、近くに、そして遠くに、つねにそれを聴いている」

「いちばんいいのは、一本の棒を地面にただしっかり打ち込むことです。ところがたいていの人々は、新しい事業を始めようというとき、比喩ではなく現実にも、杭を抜いてしまうのです。柱が他の柱によって支えられているときは、どの柱も直立していません。。一本の柱だけが直立できるのです」

「人間はいつでも、どこにでも、自分の道をきりひらいてゆける。どんな人生を思い描くこともできる。そんな考えがひらめく瞬間がいまだ。大衆の意見から浮いてしまうことなど、何でもない。政府から離れることも厭わない。宗教からも、教育からも距離を置き、そしてついに社会そのものからも去ってゆくのだ」

「アメリカにはかつて、死んだ人間などひとりもいなかったような気さえします。死ぬためには、まず生きなくてはならなかったのですから」

「森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事柄にだけ向き合い、人生が教えてくれるものを自分が学びとれるかどうかを確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が真に生きなかったことを発見するようなことがないようにしたかったからである。人生とはいえないような人生を生きたくはなかった。生きるということはそれほどにかけがえのないことだからである」

「私たちが到達できる最高知とは『知識』ではなく『知性との共振』である。単なる知識を超えた、この高度の叡智は、以前われわれが『知識』と呼んでいたすべてのものの不完全さに突然目が覚まされたときの、新しい大きな驚き、すなわち天地のあいだには人間の哲学などでは思いもつかないものが存在する、という発見にほかならないのだ。それはちょうど、霧の存在が太陽によって照らし出されるさまに似ている。人間はこれ以上高度な意味で『知る』ことはできない。ましてや、目を痛めることなく平然と太陽を見つめることなどまったく不可能なのだ」

散歩・ノート・アナロジーそして俳句

ソローの親友チャニングはこう証言している。

「事実に関して、彼は決して記憶に頼ることはなかった。彼が信頼をおいたのは日記でもなく、ポケットのなかの手帖と鉛筆とそこに走り書きされたメモだけだった。彼のノートをちょっと覗いたこともあったが、書かれた文字は一つも判読できなかった。そのかわり、私は彼の日記のなかに、ノートが拡大されたものを見いだした。野外で、彼がほんの五分ほどで書きつけたことが、そこでは何ページにもわたって展開されていたのである」

散歩に出たソローは、観察し、思索したことをノートした。しかし、それはほんの数分のことで、野外でメモすることに時間を費やさなかった。では、いったいソローは自然を散歩しながらどんな「ことば」をメモしたのか。

「ソローのことばは、つねに自然物のなかに自身のアナロジーを探していた。アナロジー、すなわちある種の物理的感覚をつうじた直感による自然物と言語との『類似 アナロジー』関係の発見によって、ソローは事物や現象の背後にはたらく、見えるものと見えないものの交感を探り出すことを生涯試みつづけたのだった」(今福龍太『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』p.144)

この今福さんの言葉を裏づけるように、ソローは日記にこう記し、自分に言いきかせている。

「類似をとり出す機会をできるだけ増やすこと。真実を感受するための道は無限にあるのだから」(1851年9月4日 ソローの『日記』)

自然の霊感(ゲニウス)と交わり、ひらめいた「ことば」をソローは書きとめた。それは「アナロジー」であり「詩」であった。

「自然のなかからことばのアナロジーをとりだすために、ソローは森を『読み』つづけた。森こそ、自然が書きつけた言葉の繁茂する、人跡未踏の原生林だったからである」(前掲書 p.145)

人の心という「種」が森の霊感を感じとると「発芽」するが、決してソローはあせらない。静かに幹が伸び、枝分かれし、葉が繁る時期が来るまで待つ。やがて突如として「アナロジー」がきらめく瞬間が訪れ、言「葉」としてほとばしり出る。この真実の「言葉」をすかさず書きとめるのだ。

ソローは、ことばを使用するたびに語の由来をたどった。これを「根っこに土がついたままのことば」とたとえ、それをつかまえて表現できる者が真の詩人であると考えた。

「『根っこに土がついたままのことば』『春になれば蕾のようにふくらみ出すことば』。このようなかたちで、言語と自然の営みとのあいだにアナロジーの連関を直感し、それを表現した者は、後にも先にもソローしかいなかった」(前掲書 p.151)

しかし、そんなソローも「霊感」を「ことば」にすることに苦しんだ。自然が私たちに与える恩寵を前に「沈黙」せざるを得ない。それを「ことば」にした時点で大事な何かがすりぬけて消えてしまう。

「沈黙というものを言葉に移そうとしてみたが、無駄だった。それは英語にはならないのだ。六千年ものあいだ、人類は沈黙をできるだけ精確に翻訳してきたが、それはいまだに封印された書物として私たちの前にある」(ソローの日記より)

「英語にならない……」

そう。われら日本人は、日本語を用い、俳句という不完全な言語表現を逆手にとって、自然の沈黙を言葉でとらえる道を見出していた。

ハーバード出のインテリで、アメリカ原住民の叡智に魅了されたソローは、西欧言語の優れた使い手であり、同時に、限界を感じていた。もし、ソローが俳句に出会っていたらどうだったろう。代表作『ウォールデン』が刊行された日のソローの日記は、なんともそっけない。喜びも感慨も何も表現されず。

「Walden published」

の二語だけが記された。

ただ、その後に

「elderberry(アメリカニワトコ)××× waxwork 黄色くなりかけたツルウメモドキ ×」

と書かれていて、森の果実の熟れ具合を × の数で記録していた。つまり、アメリカニワトコは十分熟れているが、ツルウメモドキはまだ熟していないということだろう。

ここまでまったく著作が理解されず、返本、借金の山という境遇だったソローにとって、出版社からも周囲からも応援され、期待された新著の刊行は、なによりもうれしかったはず。そんな気持ちがまったく表現されていない。しかし、ソローの鋭い「感性」ゆえに、無意識のうちに「俳句」へと接近してしまったのではないかと私は感じた。やっとここまで来たなあという感慨とともに、いつものように森を歩けば、青紫に熟したアメリカニワトコの実と、黄色に変色したばかりのツルウメモドキの若い果実があった。まさに俳句的情景だ。

ソロー先生、僭越ながら、「英語」では語れない「沈黙」を「日本語」の「俳句」にて表現させていただきます。

 

若き実も 熟す実もあり 新著かな

2017年はソロー生誕 200年であった。

野生の知性と孤独

「哲学することは、ゆっくりとはじまる。出来事のなかに理法を見いだし、別々の事実をつなぎ合わせることのできる者は、守護神のような霊感をどこかに持っている。学校でただ『川は山から流れ下る』と教えられても、それは想像上の知識でしかない。真の意味で学知を持つ者は、自らの繊細な身体感覚をつうじて自然をすみずみまで知るのだ。彼は誰よりも精確にものの匂いをかぎ、味わい、見、聞き、触れてみる。彼の経験はより深く純粋な経験となるだろう。私たちは推論や演繹によって学ぶのでもなく、哲学に数学を適用することで学ぶわけでもない。私たちが学ぶのは、直接的な交わりと共感によってである」(ソロー『マサチューセッツ州の博物誌』)

自分の身体を通じて自然の不思議を発見し、それをなんとか言葉で語り、書く。これがソローの言う「野生の知性」だ。

「知性」の基盤となる「センス=感覚」の Feel ℃ を高めるには歩けばいい。

「『歩く人』としてみずから覚醒した者だけが、真の『野生』、すなわち権力によって与えられた『市民的自由』を超える『絶対的自由』の領土としての『野生』に踏み込むことができる」(今福龍太『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』p.31)

歩くことで「自然」とつながり、「良心」を目覚めさせ、人知を超えた「高次の法 higher law」を根拠として生きる。こうした個人の集合体によって「社会」が構成されることを理想としたのである。「個」の「共同体」である。

「『孤独』とは、仲間のいないひとりぼっちの寂寥感からははるかに遠い、ある充満した心と知性の状態である。社会が要請するあらゆる惰性的思考と行動のしきたりを捨て、森羅万象にひとりで向き合うときの、清明な心の均衡状態とでもいうべきものである」(前掲書 p.177)

「人間を凌駕する、より気高く神聖なものとの交流。それが人間の常識の側から見て『孤独』と呼ばれてしまうのであれば、孤独は何ら恐るるに足りない。そこには、人間的な交際が要請する、しばしば愛想だけの表面的なことばなどかけらも存在しない」(前掲書 p.188)

明るく元気な孤独。解放された孤独。宇宙とつながる孤独。これこそ野生の知性の源泉である。

ヘンリー・ソロー『歩く』(ポプラ社)

ソローは歩いた。一日四時間以上、森を通り、丘を越え、草原を抜け、世間の約束事から完全に解放されて歩きまわった。

「どちらへ歩いていこうか決めるのがかなり難しいときがあるのですが、なぜでしょうか。『自然』の中には微妙な磁力があると私は思っています。知らず知らずそれに従うなら、ふさわしい方向に導いてくれるでしょう。私たちがどの方向へ歩くかは、どうでもよいことではないのです。ふさわしい方向があります。しかし不注意と愚かさのために誤った方向をとることが、とても多いのです。現実の世界でまだ歩いたことのない道、内面の理念の世界で旅する道を、歩いてみたいものです。おそらく方向を選ぶのが難しいと感じるときがあるのは、その方向がまだはっきりと私たちの考えの中に存在していないからです」

自然の中の磁力。その霊気は、からだを心をそして知性を完全なものにしてゆく。一方、これに反し、社会は「市民」になることをわたしたちに押しつけ、飼いならしてゆく。ソローは、孤独に閉じてしまうために野生を求め、歩いたのではない。逃亡奴隷をカナダに逃がし、政府に飼いならされた「市民」になることに抵抗し、納税拒否、収監されることも辞さなかった。心許す仲間とともに、「野生 Wild」という「自然の意志 Willed」に導かれた「自然の住人」としての「絶対的自由」を目指した。そのために必要不可欠なルーチンであり、儀礼であり、学びのプロセスが「歩く」ことだったのである。

歩いていると自然に触発されてさまざまな想像が頭をよぎる。それはまさに「神話」的な「野生の空想」。時間を越え、発展の順序にもとらわれない自由な空想こそ、知性の最も畏怖すべき遊びだとソローは言った。自然の磁力に触発された野生の空想。これこそアナロジーである。

「歩いているときは、自分の感覚に忠実でありたい。森の中にいて、それ以外のことを考えているのなら、森の中にいることにどんな意味があるでしょうか」

アナロジーは「所有」するものではなく、歩く者にいつも開かれている。風や川を自分に仕えさせ、自分のためにアナロジーを語らせる。私たちを市民的束縛=ロジカルから解き放ち、絶対的自由=アナロジーに遊ぶために歩く。私たちに必要なのは「野心」ではなく、歩くことで目覚める「野生」である。だから、熊楠も、ソローも、ただ森に入り、歩き、生まれたインスピレーション=アナロジーをむさぼるように記したのである。

歩く = Feel℃ Walk = アナロジー = Fantasy Work = LIFE = Living In Freedom & Empathy

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