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思考も歩行も飛び石に(3)

偶をジェネレートし「知遊」する作法

「知」図にする「遇」

一仕事終え、宿に戻る。今日、歩いたところを地図でふりかえってみよう。

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サンサく地図を図書館で見つけた後、まず、猿田彦神社に行き、次に市川神社を目指したが、地図上の青丸のところを見落として直進してしまったため、迷い、市川神社とは逆の南に行ってしまった。ローソンを見つけ、道路地図で確認してここより北にあることがわかり、無事、市川神社にたどりついた。参拝後、嵐電の駅を目指して北上すると広隆寺にたどり着いたのだった。

「市川神社」と「広隆寺」から「秦氏」とのつながりがわかった。では、ここからは「ネット遊歩」を開始して、「地」図を「知」図にしてゆこう。

「遇」から「偶」へ

ネットで調べてから歩いたり、歩かずにネットで調べるだけだったりでは予定調和・既存の視点を超える面白い発見は生まれにくい。しかし、歩いて得た実体験に基づく情報をきっかけに、ネットを使ってあちこち遊歩するように深ぼりしてゆくと仮説の糸口が見えてくる。

実際に歩いて得た「遇」を出発点にネット遊歩すると、思わぬ「偶」が見つかる。遭遇した「点」とつながる別の点が見つかり「偶=ペア・対」となるのだ。

こうして見つかった「偶」を「地」図にプロットしてゆくと、次の Feel℃ Walk につながる新たな調査項目が自ずと浮かび上がる。新たに「知」りたい項目が「地」図上に表されて「知」図になる。

では、今回、どんな「偶」が見つかったか、地図上にプロットして表してみよう。

そもそも今回歩いた「太秦」だが、普通に読めば「ふとやす」「おおやす」「おおたい」「たたい」となり、「うずまさ」とは読めない。ということは「うずまさ」という音の言葉が先にあって、それに漢字の当て字をしたと考える方が素直だ。

ということで「うずまさ」の起源をネットで調べてみると、「うずまさ」は日本語ではなくヘブライ語であるという「説」が出てくる。ヘブライ語で「ウズ」は「光」「文化」、「マサ」は「賜物」。「ウズマサ」は「文化または光の賜物」となる。こうして中国で景教と呼ばれた古代キリスト教の一派の流れをくむのが渡来の秦氏ではないかという説を裏づける証拠だと考える人が出てくるわけだ。

私は歴史学者ではない。だからと言って怪しい説をまことしやかに広めたいわけでもない。ただ、面白い「仮説」ならそれに乗っかって考えるのもいいじゃないかと思う。それがアマチュアの特権だ。

ということで、聖徳「太」子と「秦」氏とをつなぐ土地「太秦」はヘブライの「ウズマサ」が源だという「説」は面白いので切り捨てないでおく。

次に広隆寺についてネットで調べてみる。建立したのは秦一族の秦河勝。河勝は聖徳太子の補佐をした人物で、本堂の本尊は聖徳太子である。また、新羅由来と考えられる彌勒菩薩像があることから、秦氏は新羅から渡来したのではないかと考えられていることがわかった。

さらにネット遊歩すると、広隆寺のすぐ近くに「いさら井」と刻銘された井戸があると言うことを知る。「いさら井」とは「イスラエルの井戸」という意味であり、「ウズマサ」はユダヤに関係のある土地だと立証するさらなる証拠だとなるわけだ。学術的に根拠づけられない、ただの「こじつけ」と言われればその通りだろうが、「説」としては面白いではないか。次に訪れるときは必ず見に行かなくてはいけないところだ。

ネット遊歩は続く……

秦氏の「秦」は「秦」の始皇帝の後裔であることを示しているということを知った。朝鮮から渡来したとはいえ、元々は中国から百済か新羅に移住した人たちとも考えられているのだ。とはいえ、「自称」始皇帝の末裔なので、証明するにはDNA鑑定の必要がありそうだが、広隆寺の東にある「大酒神社」には始皇帝が祀られている。

創建したのは2世紀末に渡来した秦氏の祖とされる功満王。したがって歴史は広隆寺よりも古く、秦氏の氏神とされる。延喜式には元の名は「酒」ではなく「辟」と書かれており、「難を避ける」という意味があったようだ。ではなぜ「酒」という字を当てたかと言うと、秦氏が酒造りの技術を持ち、史書に登場する秦酒公(さけのきみ)という人物を祀っているからではないかと考えられている。

秦氏は技術者集団と言われているが、酒造りのみならず、養蚕、織物でも優れた技術を持っていたとされる。「秦氏の技」でネット遊歩して出てきた場所は、

木嶋坐天照御魂神社

だ。

どう読むのか……

このしまにますあまてるみたまじんじゃ

と読む。

織物の神である蚕が祀られているので別名「蚕ノ社」。織物を得意とする「秦氏」。ここから「機織り=はたおり」と呼ばれるようになったとも言われる。

木嶋(このしま)とは、大木が生い茂り、こんもりとした森の様子が、周囲から見ると島のように見えたからだと言う。森の中には清水の湧き出る池があり「元糺(もとただす)の池」と呼ばれている。「糺」と言うと、下賀茂神社の糺ノ森が今では知られているが、嵯峨天皇が現在の場所に移すまでは、こちらが「糺ノ森」と呼ばれていたらしい。

この社に坐(ま)す「天照御魂(あまてるみたま)」は「天照大神(あまてらす)」とは異なり、自然信仰において太陽を「日の神」として神格化したものだと考えられている。

そして、この神社にも、古代キリスト教につながるのではないかと噂される不思議な建造物がある。それは石製の三柱鳥居だ。これはキリスト教の三位一体説を表していると言われているが、もちろん真偽のほどはわからない。

最後にもう一つ。ネット遊歩の結果、知ったのは、太秦に残された古墳群が秦一族のものではないかということだ。その中でも蛇塚古墳は、広隆寺を創建した秦河勝のものではないかと言われている。このあたりでは最大級の前方後円墳で、全長75メートルほどあったらしい。今では墳丘はなくなってしまったそうだが、巨大な石を積み上げた石室が残されていると言う。誰が埋葬されたのかは定かでないが、一説では秦河勝のものではないかと言われている。

ここも次のFeel℃ Walk の時に必ず行かなければならない。しかし、実際に行っても石室しか残っていないなら古墳の全体像はわからない。そんな時こそ、実際に行くだけでは見られない「ネット遊歩」の強みを発揮する時だ。

地図を航空写真モードにして上空から「鳥の目で見る」とどうだろうか。

すると……

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おお!前方後円墳が見えるではないか。丘は崩されても輪郭に沿って家が建てられているのでこうなる。縮尺を考慮して計算するとちゃんと全長は約75メートルだ。

さて、こうして「ネット遊歩」して知った場所を「地」図にプロットしてみるとこうなった。

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2度目のFeel℃ Walk で訪れたい場所がはっきりわかるのは当然のことだが、ただ見つかったものをプロットしただけで、それぞれの場所のつながりまで見えてくるから面白い。

市川神社の板に書かれていた「由縁」には木嶋神社とのつながりが書かれていた。その二つが広隆寺と深い関係を持つことは配置された方向で明らかだ。木嶋神社は真東。市川神社は真南に位置する。さらに、寺からの距離もほぼ同じである。

大酒神社が「避ける」ことと「酒造り」の掛詞であり、木嶋神社が「蚕の社」と呼ばれ、秦氏の養蚕・織物技術に関わるとするなら、もう一つ、秦氏の優れた技術である土木・治水に関する社が「市川神社」なのではないかと考えるのが素直な発想ではないか。

「由縁」に書かれた、市川神社に祀られていた神は、男神の速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)と女神の速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)である。この神々は、イザナギ、イザナミの子どもで兄妹でありながら夫婦の神で、「水戸の神」、つまり、港や河口の神である。やはり水を司る神が祀られている。水難・水害を避け、川の氾濫を治めることを祈願するとともに、水に流された穢れを呑みこんで祓う意味もあった。こう考えると秦氏はもとより、この地域の人々にとって大事な神社だったことが推測できる。太秦市川村と呼ばれたこの地域を守る産土神としての「市川神社」の存在は見えてきた。しかし、この地域が「市川」と名づけられたのがどうしてかはいまだ何もわからない。

そこで検索ワードを「太秦 市川村」としてググってみると、

明治七年(1874年)に門前村・市川村・中里村・安養寺村が合併して太秦村ができたことがわかった(ウィキペディア「葛野郡(かどのぐん)」の記事の中に書かれていた)。

さらに古地図でこの辺りがどうだったか確かめようと思い、検索ワード「京都 古地図」でググってみると「近代京都オーバーレイマップ」というページが見つかった。明治中期以降に作られた近代地図を現代のグーグルマップに重ねて見ることができるのだ。早速、市川神社の周辺を見てみる。

一番古い地図は明治25年に作られたもので、もう合併された後である。したがって市川村という表示はない。仮製図なので精度もあまり高くないと思われるが、市川神社の辺りに神社の地図記号はない。しかし、広葉樹の記号が書かれている。周囲は水田なのに、その中に一部広葉樹が生えている場所があることが示されている。

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続いて、大正元年に作られた地図を見てみると、広葉樹だけでなく針葉樹の記号も書かれている。こちらは正式図だということを考えると、明治の仮地図では見落としがあり、針葉樹が書き込まれなかったのではないかと思う。ただ、こちらも神社記号は書かれていない。ということは鎮守の森だけがあり、社はなかったということだろうか。

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大正11年の地図になると、もはや現代の地図と変わらない精度で作られている。これを見ると、広葉樹、針葉樹の記号とともに神社マークが書かれている。鎮守の森だけではなく社もあったのだ。

 

では、大正元年から11年までの10年の間に新たに社が作られたのだろうか。もしそうだとするなら、以前も書いたように、国家神道を推進するための神社であるだろうから、その痕跡を残っていてもよさそうだがそんなものは全くない。となると、実は社はずっとあったが、現在のように小さいものだったため、こんもりとした社叢の中に埋もれていて、見過ごしたと考えてもいいのではないか。

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あと、上の地図を見て容易に想像できる光景は、市川神社の「由縁」に書かれていた

神社はつねに泥沼の中にあって洪水でいつも水の上に浮かんでいる様だった

という記述通りの神社の姿である。周囲に田んぼしかない中に一部分、島のように見えたであろう。となると「市川」ではなく、「木の島」で「木嶋」と呼ばれたように「川島」「田島」でも良かったのではないか。にもかかわらずどうして「市川」なのか。

興味は、市川氏という一族がいたかどうかよりも、「市川」という地名はどうしてつけられたかの方に移ってきた。

江戸時代以前の市川村について書かれていることはないかと思い、さらに「太秦 市川村」でググった結果を検索してみると一つだけヒットした。

大河ドラマにもなった「草燃える」(北条政子を主人公とするドラマ)の著者である歴史小説家の永井路子さんが書いた「王者の妻」の中に「太秦市川村」が出てくるのだ。電子書籍化された本の一部がネットで検索され表示されるのも「ネット遊歩」ならではだ。

「王者の妻」とは秀吉の正妻・おねねのことだ。なんとこの本に「太秦市川村」は、おねねが秀吉を供養するために建立した高台寺の所領だったと書かれているのだ。徳川家康は、豊臣滅亡後もおねねに対しては親切をつくし、

「山城国葛野郡太秦之内市川村 百石」

という安堵状を花押つきで送り、太秦市川村は変わらず高台寺領として認め、そのうえ、高台寺領内は年貢を免除したというのだ。

これは大ヒットではないか。おねね亡き後も、江戸時代の間ずっと高台寺領だったのか。そもそもどうして市川村が高台寺の所領となったのか。秀吉、あるいは秀吉の家臣、または戦国武将の誰かのものだったのか。さらにそれ以前、高台寺領になる前は誰のものだったのか。その辺りが知りたくなってきた。この辺りを最初に攻めるには、改めて右京中央図書館に行って、とりあえずは太秦村誌を当たるところからスタートするしかあるまい。

こうして「市川探究」はまだまだ続く。