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道祖神と地層が目覚めさせる時間感覚

土地への観察力、先人への感度、そして時空を超えた感覚を磨く

梅雨入りした日。雨の降る日なのに、いや、雨の日だからこそまたよし。今日も逗子を歩く。

逗子に住む友人が、りきさんにぜひ見せたい場所があると言う。なぎさ橋脇の逗子海岸の砂浜で待ち合わせた。

傘の表面をたたく軽い音がする。向かったのは蘆花記念公園であった。郷土資料館に行くときにも、桜山の古墳から降りてくるときにも通るなじみのある場所だ。

「これ見てくださいよ」

彼が示したのは公園のトイレのすぐ裏にある露頭だった。

今は公園となっている敷地を作るときに削りとってできたものであろうか。

すると、

「りきさん、後ろを見てください」

ふりかえるとそこに、鬱蒼とした草木に覆われている小山があった。

「海への突端の名残だと思うんです」

なるほど。公園の敷地に分断され、離れ離れになった尾根の先端部分が、ぽっかりと残っている。2つの露頭を見比べると、地層の模様と傾き方が同じだ。

「ちょっと上がってみませんか?」

もちろん!雨の中歩くということは、濡れて泥にまみれることは当然のごとく予想している。汚れて困るような格好では来ていない。

草をかき分け、ぬかるむ斜面を、根っこにつかまって登る。

「あれ?ないなあ……」

数ヶ月前に探索したときに、道祖神を発見したのだと言う。しかし、そこには何もなかった。ただ、地面を見ると、最近まで何かが置かれていたことをはっきり示す痕跡があるではないか。

さらに登ると、ちょっとでも足の位置がずれれば、垂直に切り立った崖から転落してしまうエッジに。そこから海岸方面を眺めることができた。

確かに、ここは海に向かって伸びていた突端の名残だと納得。

崖下は、つい最近まで家が建っていたが、取り壊され、更地になっている。あちらからこの小山はどう見えるのか。早速、行って確かめてみることにした。

すると、土地の区画に合わせて削りとられていることがわかった。崖下には、やぐらと思われる横穴もあいている。

岬の先端を切り取るとこうなるのか。実はなかなか見ることのできない地層のスライス。素晴らしい地質標本だ。

層の様子をさらに観察してみると、長方形をしたやぐらの穴のある面の堆積層は傾いておらず、地面と平行だ。

だが、ほぼ90度向きを変えて堆積層を観察すると、斜めになっている。

どの向きから押され、隆起したかがこれだけはっきりわかる露頭を初めて見た。今も生き続けているリアルな場が、そのまま博物館ではないか。

層の表面を触るとすぐにぽろぽろと崩れる砂岩である。だからこそ穴をうがつのも容易だし、木の根も食いこみやすいのだろう。

かつては海の底で、長い時間をかけて堆積してできた砂の層が、ものすごい力を受けてゆがみ、隆起し、地表に踊り出た。わずか数センチの層であっても、我々の人生の長さという時間感覚とはスケールの異なる何千年、何万年という「地球」の時間感覚の賜物だ。層のゆがみは、私たちを載せている地表の動きと、そこに加わるとてつもない力の証だ。

「逗子」が「逗子」になった由来も面白いが、そもそも土地が生まれない限り、そこに人間が住み、名づける歴史など生じようがない。そんなスケールの大きい「逗子誕生の物語」を今、間近にしているのだ。このことを感動せずにいられようか。

たまたま更地になり、次に家が建築されるまでの束の間、人の時間感覚と、地球という異次元の時間感覚とがクロスする一瞬が露わになっている。そんな場所に今日、来られて本当によかった。たくちゃんありがとう。

それにしても中途半端にあの小山だけ残ったのは不思議だ。公園を整備する時に崩すことはできたはずなのに。地権が複雑に入り交じり、勝手にいじるのが難しかったのか。更地になっている土地の所有者が、これは残しておきたいと思ったからか。壊さない理由はいろいろ考えられるだろうが、やぐらの跡があるところから、何かを供養し、祀る場であり、先人の記憶を残す場だったから、安易に壊さない方がよいと判断したのかもしれない。

道祖神が山腹にあった「らしい」ということなら、何らかの思いの込められた小山だったということだろう。

なくなった道祖神はどこに行ったのか。そもそも道祖神はそこにあったのか。

蘆花記念公園が現在のように整備されたのは、今から十年ほど前のこと。その時、市が公示した公園開発計画図をググって見つけた。

今回、探索した小山を地図で確認すると、公園の敷地と、更地になった土地との境目にある。ちょうど道祖神の痕跡があった場所に「 L 」という地図記号が書かれていた。

なんだこの記号?

地図の脇に書かれている記号表を探すと、

路傍祠

の記号。なんと、そこに道祖神があったことは「公式」に認められた!

では、そこにあった道祖神はどこに行ったのか。なぜ移動したのか。

破壊され、捨てられてしまわないようにどこかに保存されたのか、移動されたのか。

移動した理由を推測すると、ついにこの山自体が壊される時がやってきたからではないか。

個人の土地ゆえ、その土地がどう使われるかについてとやかく言うことはできない。さまざまな事情があるだろう。とはいえ、先人の記憶を記した場所であり、さらには地球の貴重な記憶を目にすることができる場所なのだから、モニュメントとして、私たちが受け継ぎ、後世へ伝えてゆく必要があるようにも思う。

そんなことを考えていたら、更地と小山と隣接する家との間に小さな川が流れているのに気づいた。

この小川は公園の入口のところから暗渠になる。野外教育センターの方に向かう道の下を流れる沢だった。

暗渠はどこまで続くのかなと思いつつ、野外教育センターの方に向かうと、右に入る路地があった。なんとなくさらに進むと、石仏が並んでいるのが見えた。

周囲にお寺はない。こぢんまりとした一角に、昔からあると思われる墓地があった。

亨保、天保と、さまざまな年代の石仏や墓標が集まっている。こうした石仏は、最初からこの場にあったのではあるまい。時代が下り、土地利用が変化し、宅地や道路などのために開発されることになり、移動させられたものだろう。

地図に記入されていた「路傍祠」も、やはりこういう場所に集められていったのだろうか。

墓標も、道祖神も、馬頭観音も、お地蔵様も、供養塔も、路傍にひっそりと佇み、見守る、私たちとつながる先祖だ。もちろん、供養された人たちのことも、供養した人たちのことも私は知らない。知らないけれどつながりを感じる。今、ここに過去の時間が侵入してきて、つながる感覚だ。

父が私をフィールドワークに連れ出した子ども時代。目的もなく、あてもなく歩くことを面白がった。と同時に、父が私に目を向けるように促したモノがあった。それは、

道端の石仏 と 野草

であった。

以来、三つ子の魂で、どうしても私は路傍の石仏にひかれる。それは歴史学的な関心とはちょっと異なる。石仏や墓標に込められた先人の思いに足を止めるという感覚的なものだ。その感覚が、土地を観察する力を鍛え、先人とつながる感度を目覚めさせるのだ。

突然、こんなところに、なぜかある。意味があるからそこにあるのだが、その意味は、謎かけに近い意味である。近代・現代の時間感覚に追いまくられるうちに、地球レベルの雄大な時間や、先人が積み重ね、今、目の前に息づいている時層を見逃してしまう。すると物理的時間の長短や、効率性のみにとらわれ、かけがえのない「いのち」の時間を実感できずに疲弊してゆく。

石仏や野草、鳥の声に耳を傾けて歩くことは都会だってできる。どこでも、誰でもできることだ。

そこにない道祖神が見せてくれたさまざまな時間感覚。目に見えないフォースに導かれる、小さな、小さな Feel°C Walk から見える大きな、大きな宇宙とはこういうことだと私は思う。

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