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思考も歩行も飛び石に(4)

偶をジェネレートし知遊する作法

「偶」のつくり方

たまたま遭「遇」することをきっかけに、今、気になっている事実・アイデアにつながる別の発想が生まれる。なんとなく気になっていた「A」が、何かとの「遇」によって触発されて「X」というこれまで思いついていない発想につながる。それが「遇」が「偶」を生み出すということだ。

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「偶」数というように、「偶」には「一対=2」という意味がある。出「遭」った事実・場所・アイデアが、元々考えていたこととひょっこりつながり、ペアになる。「遇」で「偶」が生まれる。

思いつきは、これまでの見方・考え方を異なる側面でとらえ、新しく意味づけられて生まれる。ヒトの認知システムは、二つのものを対比・類比して物事を見るようにできていると言ってもよい。これをアナロジーと言う。「遇」を「偶」とするのは、ヒトの素直なアナロジカルシンキングの結果に過ぎない。

「偶」は無意識的に気づいてしまうものだ。しかし、普段から「意識」して「偶」を見つける「あそび」を通じて、無意識に引き寄せ、感じとる力=Feel℃が高まる。

「偶」つまり「ペアとなる相手」となるものは下に図示した三つに分類できる。

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一つ目の「偶」は「似」。

「あれ?これ似てる!」

と感じるモノ・コト。同じだったり、共通性が高かったりするモノ・コトが見つかる、あるいは見つけようとすると生まれる。

二つ目の「偶」は「反」。

「逆だ!」「反対だ!」

と感じるモノ・コト。違いだったり、対立・葛藤したりするモノ・コトが見つかる、あるいは見つけようとすると生まれる。

三つ目の「偶」は「非」。

「なんだかわからないけど気になる!」

と感じるモノ・コト。似てもいないし、対立もせず、関連性が見出せないモノ・コトにひきつけられて生まれる。

私たちは無意識のうちに「似」「反」「非」を感じとり、アナロジカルシンキングをスタートするような認知システムを生まれながらに持っている。

例えば、「似」の場合。

ダジャレ、オヤジギャグの世界。「音」の類「似」から生まれる「偶」を「あそぶ」

朝、目的地に向かうとき、時間に余裕を持って歩くことが大事だ。なぜなら、せかせかせず、頭の回転が自ずと遅くなり、外界の情報が自然と入ってくる余裕が生まれるからだ。そんなことを考えながら歩いていると、たまたま橋に差しかかったので、途中で立ち止まり、川面をぼーっと眺める時間をあえてとった。

 

普段は考えられないほど水量が少ない。アオサギが長い首をひょいと伸ばして獲物をキャッチした。それを背後で見ていたコサギがやってきて、アオサギを真似るかのように獲物を探し始めた。すると、そのあと、なんとカラスがやってきて同じように獲物を探し始めたではないか。カラスが川魚をとるなんてことがあるのか。これは面白い!と思い、カメラを向ける。

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決定的な瞬間が撮れた。しかし、周囲の人々はそんなことを気にすることなく、わき目もふらず歩きスマホ。イヤホンで耳をふさぎ、外界にあふれる面白いことを「とりのがし」ている。

とりのがす? 鳥のがす?

今日の私は「鳥」の姿を「取り」のがさず豊かな時間を過ごした。余裕ある思考スタイルを持つきっかけは、自分の周りにいる「鳥」を見のがさないで観察してみることから始めればよい。

 

鳥逃さない余裕を持とう!

 

「音」の類似にあそんで生まれた発想だ。

「形態」の類「似」から生まれる「偶」をあそぶこともできる。

ジェネレーターが遊びながらどう発想を広げ、何かをつくりだしてゆくかを整理してみたら、下のような図ができた。ジェネレーターが遊びながら考えるときに用いる磁石のようなものだからジェネレーターコンパスと名づけた。

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この図を見ていたら何かに「形」が「似」ていると思った。

それは、

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古代の鏡だった。ジェネレーターコンパスは、行き先を示す「鏡」なのか……

「鏡」と言えば「三種の神器」一つだ。「鏡」の他に「剣」と「勾玉」がある。

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だったら「ジェネレーター」も「ジェネレーターコンパス」という「鏡」だけでなく、「剣」や「勾玉」を持っていると考えたらどうだろうかと考えてみる。

そこで「ジェネレーター三種の神器」の他の二つも「形」の類似で発想してみる。

「ペンは剣よりも強し」という言葉が真っ先に思い浮かぶ。「剣」と「ペン」は形が似ているからバッチリだ。

ジェネレーターにとっての「剣」となる「ペン」は、メタメタマップを書くマーカーだ。

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ジェネレーターにとっての勾玉は……

 

「似・反・非」の図でも用いたように、勾玉型の巴模様を三つ並べた「三つ巴」の図。この「図」を用いた発想がジェネレーター思考と言える。

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「形」の類似から発想することによって、「ジェネレーター三種の神器」を思いついてしまった。

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続いて、「反」の場合について考えてみよう。

目の前にあるモノ・コト、あるいは目の前の状況とは「逆」を想像してみるのが「反」だ。

ある時、街を歩いていたら庚申塔を見つけた。そこに掘られている「見ざる・言わざる・聞かざる」を「反」の視点で見たらどうなるだろうと考えてみた。

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「見ざる」の「反」は「目」を使っていること。では、「目」を使っているのはどういう場合かというと「言わざる」と「聞かざる」の場合だ。では「言わざる」と「聞かざる」の場合はどうなっているかよく見てみると、

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どちらも、かっと見開いたまん丸の目ではないか。そこで気づく。「言わざる」「聞かざる」ということは、言わない、聞かないという禁止を強調したいのではなく、よく目を使ってじっくり見つめよということを伝えたいのではないか。そのためにはしゃべったり、周囲の音を気にしたりすることをやめる。すると自ずといろいろな物事が自然に目に入ってくる。音楽を聞きながらでは何かを眺めても見落としがある。余計なこと話していると見過ごす。それが「言わざる」「聞かざる」の真意なのかもしれない。

確かに「見ざる」と目をふさげば耳が鋭敏になり、普段、意識していなかった音が聞こえてくる。「聞かざる」ことで音が見えたり、「見ざる」ことで色が聞こえたりするという人の感覚の奥深さを知るという風に「見ざる、言わざる、聞かざる」を解釈することもできる。

「反」を考えた結果、幅広い解釈を楽しむことができる。

通説とは異なる誤った解釈ではないかと思われるかもしれないが、発想を豊かにし、これまでにない物事のとらえ方を面白がる「あそび」なのだから、目くじら立てる必要はない。

「もし……だったら」

と現実の逆を仮想してみるのも「反」である。

 

住宅地を歩いていて、もしここが畑や森林だったらどんな雰囲気だろうかと想像してみる。

 

お年寄りばかりがいる場所だったら、ここに赤ちゃんや幼児がまざったらどうなるかと想像してみる。

 

現実とは対照的な光景や状況を妄想すると、やはり新たな気づきが生まれる。

 

これを発展させると、一見、似ていたり、同じだと思えるモノ・コトどうしの「違い」を見つけたり、全く異なるように思えるモノ・コトどうしの「共通性」を見つける「反」になる。

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ティッシュペーパーとトイレットペーパーはどちらも同じ・似たようなものだととらえるのが普通だろう。しかし、この二つの違いがあるかどうかひょんなことから考えることになった。

金魚すくいやスーパーボールすくいの「ポイ」が水に濡れると破れやすいという「遇」に直面して、似たような材質に見えるティッシュとトイレットペーパーも「同じ」なのか?という疑問が湧いた。

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実際に確かめてみると、トイレットペーパーは、水中につけて一つ目のスーパーボールをすくった瞬間に穴が開いてしまった。通常のポイの紙よりもはるかに弱かったのである。一方のティッシュペーパーは、何個すくってもびくともしない強靭さだった。

水洗トイレに流してつまらないようにするには「水溶性」が高い方がいいのだろう。トイレットペーパーという名のごとく「トイレにふさわしい紙」だったのだ。では、トイレットペーパーとティッシュの中間にあるポイの紙の特性は何か。似たように見える紙の違いを観察・実験して探るだけで、かなり面白い自由研究ネタになるだろう。

逆に、一見、対立・葛藤するモノ・コトとの間の共通性を見つける「反」もある。

例えば、「平和」と「戦争」について考えてみよう。「平和」は「戦争」がないことで、「戦争」は「平和」でないこと。だから「戦争」をなくせば「平和」になると考えるのが普通だ。

 

しかし、「平和」を乱す侵略者・敵というレッテルを他の国・民族・宗教に貼りつけ、私たちに「平和」をもたらすために「戦争」をすることがある。一方、仮想敵をつくり、戦争によって彼らと戦うという状況を生み出すことで国内の争いは消え、一枚岩に団結する。「戦争」によって内戦は消え「平和」になるのだ。こう考えてくると「戦争」か「平和」かとただ考えること以上に、「私の平和」と「あなたの平和」を区別する発想の危険性を考えることが重要だということが見えてくる。

 

常識的な発想を深く考え直すには、対立・葛藤すると思われていることに共通する部分が隠れていないか探る「反」が有効だ。

最後に「非」。なんのつながりもなさそうなモノ・コトとの間につながりを見出すコトがある。

「似」にしろ「反」にしろ、もともと音や形、意味の類似や、対立・葛藤構造があり、それが起点となって発想する。しかし、全く脈絡がなく、突然、降ってくるような「偶」が「非」。つまり、無関連なのにつながりが生まれる「偶」だ。いわゆる「ひらめき」のイメージに一番ぴったりくる「偶」かもしれない。

「関係ないことひらめいちゃったんだけど」

特に子どもがよくする発言だ。

自分が面白いと感じるものを見つけて林の中を歩いた。歩いた後、集めたものを「図鑑」のようにまとめることにした。すると、ある子は、「葉っぱ」「木の実」というように分類するのではなく、見つけたものをつなげて「ボート」の形にした。「図鑑」とはこういうものというアイデアに縛られることなく、より面白い「非」なる思いつきに発展させる感性を子どもは素直に発揮する。

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ミス、間違いがきっかけだったり、たまたま欲しいものがなくて手近なものを使わざるをえなくなったりしたときにも「偶」は生まれる。

 

間違って違う調味料を入れてしまったから、冷蔵庫に欲しい材料がなかったから、仕方なく生まれたものが、とても美味しくなったり、美味しくはなくてもそこから新たな気づきが生まれたりする。

 

間違い・不足=失敗=ネガティブイメージ=よくないこと

 

としてとらえる姿勢の真逆で、通常は生まれない「非」なる状況から思いがけなく知ることができる面白み。予定調和を脱した新しい発見は、こうして生まれる。

たまたま連続して生じ、時間的にも空間的にも近接したためにつながってしまった「偶」。それを「偶」と感じとることができるのは、生じた「遇」を捨てずに拾っているからだ。

こう考えると、主体的に選ぶということの意味が変わってくる。自分が欲しいものを選ぶのではなく、向こうから押し寄せてくるものを捨てずに拾う。受動の Feel℃に裏打ちされた選択なのである。

意図・目的に縛られる「主体的姿勢」が視野を狭くし、無意図・無目的に漂う「受動的 Feel℃」が高まることで、自ずと得られるものに気づく。「しよう」とするのではないのに「なる」という感覚とはそういうものであり、その結果、「偶」が生まれると言えよう。